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    原発問題 -The Truth is Out There-

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    東電福島原発事故の真実 放射能汚染の真実 食物汚染の真実 正しい情報を求めて

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    反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク ジャーナリズム、調停役として機能せず 

    反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク
    ジャーナリズム、調停役として機能せず
    武田 徹 2011年3月30日(水)


     2011年3月11日14時20分。筆者を乗せたトルコ航空TR051便は、ほぼ定時に成田国際空港を離陸した。大地が大きく揺れたのはその僅か27分後であった。飛行中、日本の情報は伝えられず、筆者が東日本で大きな地震が起きたことを知ったのはイスタンブールのホテルのフロントスタッフの言葉からだった。

     不安に駆られる気持ちを抑えつつ、部屋の無線LANの回線にPCをつなぐ。スクリーン上に映し出された光景は眼を覆うばかりの惨状であった。

    日本の安心安全が吹き飛んだ

     以来、刻々と更新されるネット情報を追い、テレビでBBCやCNNのニュースを見続ける日が数日間続いた。最も大きな衝撃を受けたのは、福島第一原発1号機で水素爆発が起きた光景を海外メディア経由で見せられた時だった。原発は地震直後に緊急運転停止こそできたが、津波で予備電源を失い冷却機能を喪失していた。炉内や燃料保存プールの中の燃料棒の崩壊熱を取り去ることができず、燃料棒が破損し、中の放射性物質が外に出てしまう危機的状況に至っていることは聞いていた。

     しかし原子炉建屋が吹き飛ぶ様子を自分の目で見ることになるとは――。筆者は何度か福島の原発を取材で訪ねている。設備を見学させて貰い、原子炉建屋にも入った。建屋の最上階には体育館のような天井の高い巨大な空間が広がっており、その中心から少しずれた場所に見学者用の立て看板が置かれている。そこには「炉心中央部」と書かれており、床にあるマンホールのような蓋の下に原子炉が置かれていることを示しているのだ。マンホールは定期点検中にそこを開け、原子炉内部から燃料棒をクレーンで釣り上げて取り出すためのものであり、横には取り出した燃料棒を収めるプールがあり、水を満々と湛えていた。

     取材の場合にさすがにそこまではしないが、学生などを連れた見学会ではその「炉心中央上」の看板と一緒に記念撮影をすることが多い。筆者と同じく過去に原発を見学し、そこで記念撮影をした人たちにとっても建屋爆発の光景は衝撃的だっただろう。かつて自分がそこに立ったことがある場所が爆発で消えてしまったのだから。

     取材では、放射線が厳密に管理されていると説明を受けていたが、それでも全面的に安心できているわけではない。こわごわ原子炉施設の中を見て回り、しかし、炉心の上に実際に自分の足で立ってみると、足の下には日本の繁栄を支える電気を作るために猛烈な熱を発生させている原子炉があるのに、その熱も全く伝わらず、何も感じさせない平穏がそこにはある。それが確認できた時に、なんとなく原発は結構安全なのかもしれないと思い始める。それが原子炉を実際に見たものの平均的心境だったのではなかったか。

     だがその思いは裏切られた。「とめる」「ひやす」「とじこめる」を安全の合い言葉としてきた日本の原発は震災によって制御不能に陥り、崩壊熱の発生をとめられず、冷却水を循環させてそれをひやせず、放射能を建屋内にとじこめることもできない状態となり、日本人の安全安心への意識を根底から覆した。

    イスタンブールのホテルに缶詰になってテレビとネットを見つづけながら、個人的には2つのことを思っていた。筆者が原発を盛んに取材していたのは『「核」論』という本を書いていた頃だ。そしてもうひとつ、筆者は東京大学先端科学技術研究センターで「安全安心を実現する科学技術人材養成プロジェクト」に加わっていたことがある。実際にはそのプロジェクトの中の一部門だった科学技術ジャーナリスト育成のプログラムを中心的に担っていたのだが、当時は安全や安心ということについて考えることが多かった。

     その頃、安全や安心という言葉に対して筆者は否定的だった。安全や安心を目標として高く掲げる社会は排他的になる。気心の知れた者同士だけで生きることこそ安全と信じ、よそ者を排除したり、仲間内で足並みを揃えない人を排撃することで安心を得ようとする。しかし、そんな社会はむしろ危険だ。寛容性を失い、ひとたび他者に不安を覚え始めると、それを排除してもまた他の異物が目に付く不安のスパイラルから逃れられなくなる。筆者はそう考えて安全・安心という言葉に対して批評的である必要を常に強調してきた。

    原子力的日光が落とす影

     だが震災を経験して心境の変化が起きた。日本を離れていたのは1週間弱で、事故の翌週には再び成田空港から東京に戻っている。2号機の圧力抑制室が破壊されたと報道で聞いていたので放出された放射線量が気がかりだった。空港でネットをチェックし、線量が増えていないことを確認していたが、正直いって気味の悪さは払拭できなかった。

     春の光溢れる日に広大な空港駐車場を、スーツケースを転がしつつ歩いていて、筆者は「原子力的日光」という言葉を思い出していた。それはかつて書いた『「核」論』の中で取り上げた、日本が戦後復興にむけて舵を切った瞬間にGHQのホイットニー准将が口にしたとされる言葉である。

     日本の戦後憲法草案が作成される過程でGHQの関与があったことは周知の事実だ。旧体制への未練があってなかなか革新的な新憲法を作れずにいる日本側憲法起草委員たちの会議会場に現れたGHQのホイットニー准将は、いわゆるマッカーサー草案を彼らに示し、しばらく部屋の外に退いて日本側に検討の時間を与えた。

     15分後に部屋に戻ったホイットニー准将は芝居がかった口調で述べたという。「原子力的な日光の中で陽なたぼっこをしていましたよ(原語ではWe've just been basking in the warmth of the atomic sunshine.)」

     原子力的日光とはこの時点でアメリカだけが封印を解いた核エネルギーの光だ。ホイットニーは唯一の原爆所有国の圧倒的な存在感をもって日本側にマッカーサー憲法草案の受諾を求めた。

     やがてソ連も核兵器開発に成功し、核武装国が増えて行ったし、一方で原子力の各国で平和利用も始まった。その意味で原子力的日光は世界に満ちる光となった。しかしその光はひとたび原子力への制御が失われれば、甚大な災害をもたらすという影を伴っていた。

     晴れた空を見上げて筆者は、そこに混じる原子力的日光を見ようとし、その光が落としている影について思いを馳せようとしていた。

     空港の駐車場に置いたクルマは幸い燃料が多く残っていたので無事に自宅に帰れたが、そうでなかったら沿道のスタンドはガソリンが売り切れており、クルマを置いて電車で帰らなければならなかった。交通網は計画停電措置で寸断されており、成田から東京までの移動で果たして何時間かかっていたか。帰ってからも余震は繰り返し、食物や水への放射能汚染が報道され続けた。何気なく暮らせていた今までの日常がいかに貴重で大事なものだったか、失ってみて改めて気づかされる。すべてのことが原子力施設を意識せずには行えない。ラジオやテレビ、ネットで状況確認をする作業は帰国後も続いている。実はこれは原子力的日光に照らされた社会に住む者が強いられる行動上の宿命なのであり、実は私たちは今までそれを忘れていた、あるいは意識せずに済ませようとしていたに過ぎないのだろう。

     そんな状況の中で筆者の安全安心感も変わって来た。

     確かに排外主義的に求められる安全安心は批判されるべきだ。その考え方は今も変わらない。だが生活をする上で手放すことのできない安全や安心、それは日常生活の平穏と置き換えても良いだろう――、誰にも平等に与えられ、生きて行く基本的な所与として最低限保証されるべき安全と安心が人の暮らしには必要なのだ。これは政治学者ジョン・ロールズのいう「基本財」としての安全安心と呼ぶべきものかもしれない。ロールズは権利、自由、(雇用や教育の)機会、収入や富など、どんな生き方をするにしても必ず必要になるものを指して基本財と呼んだが、もっとも基本的な安全安心もそこに含まれると考えて良いだろう。

     2つの安全安心はあくまでも異種のもので、厳密に区別されるべきだろう。それも紙の裏表とでも言うべきか、排外主義的に求められる安全安心を批判的に相対化する作業は、同時に「基本財」としての安全安心を実現するものでなくてはならない。様々な社会制度や、科学技術や、メディアコミュニケーションはその両面を実現すべきなのだ、そんなことを筆者は被災を経て考えるようになっていた。
    なぜ6機を密集させたのか

     ではそうした「基本財としての安全安心」はどのように求められるべきなのか。その答えは、そんな安全安心がどのように失われたかを辿り直すことによって得られるのではないか。

     原発を含めて日本の原子力技術受容の歴史について振り返って書いた『「核」論』では原子力反対派と推進派が互いに不信感をもって向き合い、最良な妥協点を見出せなくなっている事情を書いた。福島第一原発はまさにこうした構図の中に置かれてきていた。

     科学技術はリスクを生み出すものだ。ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンはそう考えた。ルーマンは「危険」の対語を「安全」としない。「危険Gefahr」と対置されるべきは「リスクRisiko」だと考えた。彼が「危険」と呼ぶのは、いわゆる天災の類だ。それに対して、人間が関わることで発生する危険を、彼は「リスク」と呼ぶ。

     こうした危険とリスクは単に対立するわけではない。たとえば冷たい雨はそれに身体を濡らした人を病気にしかねない危険な存在だ。この場合の雨は人の力で降らせたり、止ませたりできないという意味でのまさに天災の一種である。だが、傘という「文明の利器」を人類が発明した時点で、この天災としての雨は性格を変える。雨に濡れて風邪をひくことは、傘を持たずに家を出た人の責任に帰せられるリスク=人災となるからだ。

     このように文明が、天災としての危険をリスク(=人災)に変質させてゆくと考える点がルーマンのリスク論の特徴だ。

     今回ももしも原発が福島県の太平洋岸に作られていなければ、放射線の恐怖に日本国民の多くが怯えるような結果にはならなかった。地震や津波という天災を原子炉事故を伴う災害に変えたのは、原子力利用技術を採用したからに他ならず、日本社会が原発を作った結果として地震と津波は人災化したのだ。

     しかし、この人災化の構図は丁寧に見て行くとより複雑だ。

     福島県に原発が作られるようになったのは地元がそれを求めたことが大きい。1960年には福島県議会が東京電力に原子力発電所用地の提供を申し出て、61年には大熊町、双葉町議会が原発誘致の決議をしている。当時、「原発が来ればこのあたりは仙台のように栄える」と言われたそうだ。繁栄への願望が原子力を求めた。それは福島だけではなく、当時の日本全国がそうだった。原発へのラブコールは日本全国から送られていた。

     ところがやがて風向きが変わる。福島第一原発が稼働し、電気を首都圏に送り始めた71年は、まさに米国で盛んになった反原発運動が日本にも飛び火し始めた分水嶺となった。一足先に作られた関西電力の美浜原発で小さなトラブルが続いていたことも原発に対する不安感を増長させた。

     こうした風潮の中で、今後、原発が作りにくくなる事態を憂慮した時の田中角栄首相は「電源三法」と呼ばれる電源立地助成制度を作って、原発の建設を加速させようとした。「東京に作れないものを作る。作ってどんどん東京からカネを送らせるんだ」(『アサヒグラフ』1988年6月10日号)。田中首相の肝いりで作られた電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法の3つのいわゆる電源三法の制定により、全国の電力使用者が支払う電気料金の一部分を電源立地に環流させることが可能になり、原発立地には目を見張るような大きな公民館が作られ、整備の行き届いた道路が敷かれた。

     だが79年のスリーマイル島事故、86年のチェルノブイリ事故を経て、原発に対する不安は増大し、こうした地元振興の助成政策をセットにしても原発用地の新規取得は著しく困難となってしまう。

     そんな状況の中で、原発依存を続ける方針を採るなら、既に取得された場所の中で増炉や使用済み燃料の保存を行うしかなくなった。福島第一原発が、敷地内に立ち並ぶ6機の炉が連鎖的に破壊される恐怖で国民をおののかせたのは、そうした過去からの経緯による。つまり人災化の過程で反原発運動と原発推進の国策、電力会社の施策が絡み合い、リスクを肥大化させてきていたのだ。

    こうした構図はゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」に通じる。囚人のジレンマとは逮捕され、別々に独房に収監された2人の囚人が、互いに相手は口を割らないと信じて黙秘を続ければ取り調べは暗礁に乗り上げ、両者とも無罪放免されるのに、実際には相手を疑い、仲間が自分を裏切るかもしれないので、ならばその前に自分から仲間を裏切って司法取引に応じてしまおうと考えることだ。こうして両者がそれぞれに事件の真相を自白した結果、両者とも罪が確定し、刑に処される。

     なぜ2人の囚人が最大の利益を得られない結果にみすみす至ってしまうのか、それは、人は利己的な生き物であるという前提=利己心仮説が導く必然である。相手は利己的であり、自分を裏切るだろうとあらかじめ疑ってかかる。その前提において、相手を信じずに自分の利益のみを最大化しようとした結果、両者の利益の最大化がなされない。

     この構図が原子力を巡ってもありえる。ここで反対派をA、推進派をBとする。反対派は原子力利用をなくすために今後も積極的に反原発運動をする(=A1)か、あるいはもはや反対運動をやめる(=A2)かという2つの選択肢を持っている。推進派も同じで今後も原子力利用を続け、施設を増設し、あるいは既存施設を維持し続ける(=B1)か、その政策を放棄する(=B2)かの選択肢を持っている。

     反対派は国や電力会社に原発の即時停止を求め、反原発運動を続ける(A1、B2)。しかし推進派は日本の国力を維持する電力需要に対応できないとして原発の停止には応じない。彼らは原発がいかに安全かを様々な機会を通じて訴え続け、反原発運動が鎮まることを期待している(A2、B1)。こちらは反原発運動家には大事故を招く選択と映るので、とてもでないが承伏できない。こうして両者が互いに相手の主張を拒否する結果として選ばれるのが(A1、B1)である。反対運動は続き、一方で原子炉の新規建築、増設も続く。この結果、反対運動の妨害を受けて新規に原発用地を取得することはできなくなった推進派は、既存の敷地内に原発を密集させることになる。これが福島原発のリスク(=人災)をむしろ拡大させてしまった構図だ。


     囚人のジレンマ的状況は原子炉の安全性確保に関してもありえる。実は外部電源を喪失しても重力をつかった冷却水注入や、自然な廃熱によって安定的に冷却にまで至る新世代の原子炉も設計されている。スウェーデンで75年ごろ研究されていたPIUS(Process Inherent Ultimate Safe)炉は、スリーマイル島原子炉で起きたような冷却水が喪失する重大事故が起きると容器内外に圧力差が生じ、外のプールからの水が注入され、ホウ素の中性子吸収効果で核反応が停止するに至るよう設計されている。特徴的なのは外部からの冷却水注入にポンプなどの動力を必要としないこと。人工的な操作を必要とせず、自然の力で安全性を確保するこうした方法を受動的安全性と呼び、PIUSは設計構造そのもので安全性を確立した炉形式ということで固有安全炉と名乗っていた。

     実は日本でも日本原子力研究所が1993年からJPSR(JAERI Passive Safety Reactor)炉などPIUS炉の延長上の研究に着手し、受動的安全性を確保しつつ実用可能な炉型を探った。だがその成果は殆ど報じられなかった。なぜか。より安全な炉があると認めれば、いま動いている原発の安全性に問題があると認めることになる。反原発運動のアピールで不安を感じている国民を安心させるべく現在運転中の原発に関して「絶対安全」と繰り返して述べて来た以上、「より安全な原発」の存在は許容できず、その道を選ぶことができないのだ。

     こうした反対派と推進派が互いに不信感を持って一歩も引かずににらみ合ってきた構図が原子力発電のリスクを拡大してきた。そしてそのリスクは今回、現実のものとなってしまった。

     そうした経緯を考えるとき、本当に選ぶべきものは(A2、B2)の選択肢だったのだ。推進派は反対派の主張に耳を傾け、従来の原発=絶対安全のプロパガンダを一旦取り下げてより安全で安心できる原子力利用の道がないか、もう一度検証しなおす。一方で反対派も原子力利用絶対反対の姿勢を緩め、リスクの総量を減らす選択を国や電力会社が取ることを認める。こうして両者が互いに僅かであれ相互に信頼することで開かれる選択可能幅の中でリスクの総量を最小化する選択肢を選んでいく。

     しかし、原子力を巡る囚人のジレンマ構造によってこうした経過は選ぶことができなかった。こうした構造的な問題こそ今、意識し、それを乗り越える方法を模索すべきなのではないか。

    ジャーナリズムも賛否が割れて対立

     そして、こうした「囚人のジレンマ構造」からの脱却こそジャーナリズムの目的ともなろう。それこそ「基本財としての安全安心」を実現する方向で社会に貢献できるからだ。

     だが日本の原子力関係の報道の歴史はそうした指向を持つことはなかった。先に60年代の日本社会は原子力発電を希求していたと書いたが、当時の報道も原子力翼賛色が強かった。ジャーナリズムもまた日本が本格的に戦後復興を果たすためには原子力の平和利用が必要だと報じていた。だがそれは余りにも脳天気な報道姿勢だった。実際に原発はルーマンのいうように危険をリスクに変える科学技術の応用例である。それが生み出すリスクについて予想し、その対応が実施されているかの検証を報道は怠ってきた。

     そして反原発運動が盛んになってからも報道は本来の責務を果たしてこなかったのではないか。『「核」論』を書いているとき、取材に行くと相手がしばしば口にする言葉があった。あなたは「推進派ですか? それとも反対派ですか?」というものだ。どちらの立場なのか、まず確かめなければ話ができない。同じ立場なら胸襟を開いて話ができる。違う立場なら言質を取られないように注意しないといけない。取材相手が疑うことなくそう口にするのは、あらかじめ立場を確かめておくことが習慣として定着していたからだろう。そして実際に報道されている内容もそれを物語る。反対派のメディアと推進派のメディアがあり、同じ事象を報じても評価の仕方が180度違っている。

     原子力を巡って2つの共同体ができている。原子力技術利用に賛成する人の集団と反対する人の集団だ。それぞれに科学者が含まれ、ジャーナリストが配置され、メディアがある。こうした構図が囚人のジレンマを放置してきた。

     原子力技術利用史においてジャーナリズムがなすべきだった仕事、それは「囚人のジレンマ構造」が「基本財としての安全安心」を損ないかねないリスクの増加を招いていることに気づいて、原子力を巡る2つの共同体の価値観を調停することだった。ジャーナリズムが基本財としての安全安心の実現に資するとしたら、まさにそうした方法を通じてだろう。

     しかし被災以後の原子力を巡る報道はそうなっていない。政府や電力会社の発表を伝える新聞・放送系のマスメディアと、それをあくまでも疑おうとするフリーランス系のジャーナリストたち。その対立の落とす影の深さを、原子力的日光は照らし出している。

     こうした状況をいかに乗り越えることができるのか。3月11日の前代未聞の災害をせめてもの奇貨として、筆者はこれから考えていきたいと考えている。

    日経ビジネスオンライン

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    原発 放射能 食品汚染 by freeseo1
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