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    原発問題 -The Truth is Out There-

      : 

    東電福島原発事故の真実 放射能汚染の真実 食物汚染の真実 正しい情報を求めて

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    ローレンモレ:福島原発 日米政府の広島 長崎 福島放射能被害データ改ざん 笹本征男:占領下の原爆調査が意味するもの 

    福島原発 日米政府の広島 長崎 福島放射能被害データ改ざん
    ローレンモレ 




    笹本征男 占領下の原爆調査が意味するもの

    笹本征男(占領史研究家)
    ささもと・ゆくお 1944年島根県生まれ。中央大学法学部卒。在韓被爆者問題市民会議会員。占領・戦後史研究会会員。著書に『米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本』(新幹社、1995)。訳書に『占領軍の科学技術基礎づくり(占領下日本1945~1952)』(ボーエン・C・ディーズ著、河出書房新社、2003)。ほか論文多数。

    2005年9月12日、市民科学研究室にて
    聞き手:上田昌文(当NPO代表)


    上田:──戦後60年という大きな区切りの年にきて、日本が様々な面から戦争の意味を考え、広島・長崎の原爆についても今後どう受け止め、伝えていくかという点についても、新しい捉え方、見方を作らなければという機運があるように思います。科学技術という観点から見ても、アメリカの原爆開発における科学技術開発の体制が大きな影響を持ったということが一つ。また、日本は核兵器開発こそ手を染めなかったものの、一方で世界に冠たる原子力大国になっているわけです。この日本の状況が一体どういった背景で生まれ、維持されてきたのかを、改めて振り返る必要があると思います。笹本さんには、現在は低線量被曝PJにもご参加いただいて、歴史的な観点からも毎回新しい示唆や資料などを持ってきていただき、メンバーは大いに刺激を受けています。

     今日は原爆調査をメインに語っていただきますが、個人的な歩みに引き寄せて伺いたいと思います。戦後60年の節目ということで 社会的にも様々な話題がのぼっていますが、そういう中で笹本さんが感じたことをまず語っていただき、それを切り口に進めたいと思います。

    笹本:今年は8月5日に広島に行き、6日に故郷の島根県益田市で、市民が開いた平和集会で講演をしました。まず、広島での話をしましょう。僕が原爆問題に関わることになったきっかけは、1968年に「原爆文献を読む会」という会に参加したことでした。長岡弘芳さんが呼びかけた会です。それから40年近くになりますが、実は広島市、長崎市にはほとんど行ってないんです。特にアメリカが原爆を投下した8月6、9日は、慰霊祭が盛大に行われますが、それにもほとんど行ったことがない。

     一つには、儀式的なものに対する批判的な目から、行きたくないということがあります。今年はたまたま友人が呼んでくれたので行ったのです。8月9日の長崎市にも行ったことがない。20年くらい前に母と一緒に旅した時、お正月の長崎に行きました。ちょうど本島等市長(当時)が撃たれた直後だったかな。

     広島・長崎に行かないもう一つの理由は、僕は島根県から出て1965年に東京に来たのですが、それまでヒロシマ・ナガサキ、被爆者の問題というのはほとんど知らなかったのですが、「原爆文献を読む会」への参加を通して中島竜美さんたちに偶然出会い、そのうちの何人かの人とはそれから40年近い付き合いをしていますが、そういう人たちの影響を受けたのです。東京にも、広島・長崎にアメリカが投下した原爆で被爆した人たちが、1万人以上いたということを初めて知りました。

     その驚きから、東京で被爆者の問題を考えよう、と。つまり、カタカナのヒロシマ、ナガサキは普遍的なものだから、「東京のヒロシマ」もあり得ると考えました。東京に住んでいる被爆者とはどういう存在なのか、なぜ今そういう人たちがいるのか、と思ったのです。
     今年の8月5日の広島では、「韓国の原爆被害者を救護する市民の会」の広島支部長の豊永恵三郎先生に会おうとその日の所在を尋ねると、原水禁(原水爆禁止国民会議)大会の分科会に出ているという。その分科会は原爆症認定訴訟問題と在外被爆者問題についてでした。その時の違和感を話したいと思います。

     原爆症認定の問題は今日は触れず、在外被爆者問題についてお話します。在外被爆者とは、広島もしくは長崎で被爆した人が、その後帰国するなどいろいろな事情で外国に行った人たちで、現在外国に住んでいる被爆者のことです。その分科会には、ブラジル在住の日本人被爆者と、アメリカ合衆国在住の日本人被爆者の二人が来ていました。ブラジルの方は20歳頃にブラジルへ移民した。ブラジルにいる被爆者は、ほとんどが日本政府の移民政策によって行った方です。アメリカの被爆者はちょっと複雑で、8月6日に日本にいた外国人や日系アメリカ人です。アメリカ市民権を持っていて、たまたま故郷である広島・長崎に戦争中帰っていて、被爆後アメリカに戻った。その他、占領時や朝鮮戦争時に米軍兵士と結婚してアメリカに渡った女性や、移民として仕事上渡った人、大別するとそうなります。一番考えなければならないのが、原爆を製造して実際に使った国アメリカに住んでいる被爆者に、アメリカ政府は一切補償などしていないこと。それから原爆を実際に使って、今なお核兵器を保有し続けている「核大国アメリカ」に住むということがどういうことか。これは今まであまり日本では語られてこなかったですね。

     原爆を作って、投下したのはアメリカです。この「アメリカ」という主語、つまり行為主体としてのアメリカというのが大事です。その集会で僕が一番感動したのは、ブラジルから来た被爆者の盆子原邦彦さんの挨拶なんです。彼は、原爆を投下したアメリカ政府に対する批判をはっきり「アメリカ政府」という言葉を使って言うわけです。日本政府についても「日本政府」とはっきり言いまして、「日本政府」は自分たちを含めた被爆者を差別してきた、放置してきたと指摘しました。もっと感動的だったのが、自分は日本人だが、少なくとも歴史的に考えれば韓国人被爆者の援護は私たちより先にあるべきだと言ったことです。日本の植民地支配によって「強制連行」などで日本に渡ってきた人たちは、日本人より先に援護されるべきだと盆子原さんはおっしゃった。僕は非常に感動した。つまり、彼はアメリカを主語にして語ることができたんです。その後女性だけが集まった分科会にも出ました。一人のフィリピンから来たフィリピン人の老女性がタガログ語で話したのですが、彼女もやっぱり主語をはっきり言いました。「私の村に、1944年11月23日に日本軍が侵略してきた。その時私は13歳だった。日本兵が私を陵辱した」と。「日本軍、日本兵」と明確に言うわけです。

     その集まりでも、日本人被爆者と被爆者の子供の挨拶では、アメリカという言葉は出なかった、その前の分科会でも、日本人主催者の発言は、まず「被爆60年」という言葉から始まり、アメリカは出てこない。主語を明確にすること、これはかなり重大なことだとはっきり認識しました。

     そこで次の益田市での市民集会では、真っ先にこの話をしました。この市民集会は非常によい集会でしたが、ここでも主催者の挨拶にアメリカという言葉が出てこない。集会中に証言したのは、在日朝鮮人の女性、日本人兵士として広島で被爆した男性、植民地からの引き揚げ者の女性、それと若者が一人でした。被爆者の証言にもアメリカという言葉はなかったのです。私はなぜアメリカという主語抜きに原爆を語るんだ、と言いました。アメリカという主語がないことは、たとえばアメリカの原爆投下の責任を問題にしないということです。主語なしで突然被害の話をし始めるのは、被害者を侮辱する話ではないですか。それが60年も続けられているわけです。今年の夏、それを違和感としてはっきり認識しました。

     こうした状況は、日本ではあらゆる分野に見られます。原爆被害を語るときに、アメリカという主語を入れないことが当たり前なんですよ。これは思想の荒廃だと僕は思うんです。今年の秋葉忠利市長の広島平和宣言も、原爆問題、被爆問題を継承しようというのが主眼ですが、この宣言も若者に継承しようというときに一番大事な事実についての言葉──アメリカが原爆を投下したということ──が抜けています。これで継承できますか?

     もう一つ、盆子原さんは、総理大臣も広島市長、長崎市長も、私たち在外被爆者を差別しておいて平和を語る資格がないと、配布されたパンフレットに書いているんです。彼だけですよ、そういうこと書いているのは。つまり、彼は日本人だけど外国に住んでいるから、よく見えるわけです。

     別に僕は単にアメリカを批判するつもりだけで言ってるんじゃない。歴史的事実として行為主体をはっきり言わないで、たとえばどうして僕たちは日本による中国侵略を語れますか?

    ──笹本さんのお仕事は、今の「主語を明らかにしない」という私たちの認識構造の問題を、原爆調査を通して明らかにするものだと思います。歴史から発掘すべき、光を当てるべき問題を「原爆調査」に見出してきたわけですよね。具体的にどういうところから着手されて、どのように調べられたのか、お話し下さい。

     20年前のある日、中島竜美さんが「原爆記録映画」の素顔というテーマのテレビ番組を作るので、そのための調査を手伝ってくれと言ってきました。原爆記録映画は日本がまさに米軍のために作った記録映画ですけど、それで彼の元で勉強を始めた。毎日中島さんと議論して、かなり詳しい年表をまず作りました。わかった限りの資料から原爆調査に関する日米間の動きを克明に時系列でたどり、縦軸と横軸を絡ませて年表を作りました。その過程でふっと「これ何だろう」ということがありました。

     具体的に言いますと、原爆投下後の日本軍による調査に関して、日本国内で原爆被害報道がほとんどされなかったことは知っていましたが、海外のメディア、特にアメリカの新聞を見ていたら、原爆被害が報道されているんですが、それが日本発の情報なんです。同盟通信社(現在の共同通信の前身、国策通信社)、ラジオ東京(NHK海外放送の前身)からの情報というクレジットが記事に入っているんです。これはなんだろうというのが最初でした。なぜ日本から原爆被害情報がアメリカに流れているのか……。僕は「そうか、これは日本側が原爆被害を利用したんだ」とひらめきました。そして、原爆被害者を日本政府・日本軍はアメリカに売った、と、「売った」という言葉が頭に浮かびました。

     中島さんの番組も完成して、その後、1989年夏の占領史研究会の山中湖での合宿に科学史家の中山茂先生と吉岡斉さんが来たんです。当時、中山先生を中心に進められていた『通史 日本の科学技術』(学陽書房刊)のための勉強会に占領下の時期を研究している人がいなかったのです。それで中山先生に「一緒にやろう」と言われて、それから本気で勉強を始めたんです。具体的には米軍占領下のGHQ(総司令部)の原爆関係資料を読み始めた。そのうち吉岡さんから要請されて「歴史と社会」という雑誌の1989年9号に「原爆被害初動調査における日本軍の役割」を発表しました。この小論が、私が最初に原爆問題で書いた文章です。その号には、今の広島市長の秋葉さんも書いていましたね。

    ──笹本さんがまとめられるまでは、原爆調査そのものに関する歴史研究というのはなかったのですか?

     原爆調査の事実だけは伝えられていても、その意味とか問題性を追求した歴史研究はなかったですね。唯一あったのが、中川保雄さんの研究*でした。原爆調査に関心を持ったきっかけはうまく説明できませんが、なぜ日本からの原爆情報がアメリカに出ているんだという単純な疑問がきっかけだった。それまで僕は、あれだけの大事件を世界の新聞が伝えるのは当たり前だと思っていました。だから原爆被害の記事がアメリカの新聞に出ていることには、全く疑問を持っていませんでした。前にも話しましたが、なぜ日本から原爆被害の情報が流されているのか、それは敵に被爆者を売っていることじゃあないか、という発見が僕にとっての出発点です。

     しかし、そのことが自分なりにわかった時、僕の思考は麻痺し、何も考えられなくなった。頭の中が真っ白くなった。それまで勉強してきたことが全部ご破算になった。かっこいい言い方をすれば、僕の思想は一回死んでしまった。「原爆被害初動調査における日本軍の役割」という文章を書くことには、思想的な死からのよみがえりの意味があったのです。この小論をまとめることが、僕を生き返らせることになったと今は思います。

     その後は全てを疑った。広島・長崎について語られていること、書かれていること、話、全部を疑うようになった。それらは僕の疑問に答えていない、僕は納得できないわけです。そして、ずっと調べていくとやっぱり当時の国家権力の問題に関わるわけです。昭和天皇裕仁であり、日本軍であり、当時の帝国政府であり、そういう人間たちの組織の中で、国家意思が発動しているから起きたということがだんだんわかってきたんです。それが追求の大きな柱になった。ただ、調べるのは本当に大変でした。なにしろ証拠がほとんどないんですから。

     アメリカが使った大量殺戮兵器によって被害を受けた国が、なぜ敵軍であるその米軍の目の前で被害調査ができるのか、というのが一つ。どうしても解明したいと思って調べましたけど、ほぼわかったことは、昭和天皇裕仁、総理大臣、参謀総長とか、そういう人間たちが米占領のために原爆調査をやれということを言葉として残した資料は何一つない、ということでした。でも、意思決定の言葉はなくても、東京帝国大学などの科学者が動いている様子や、彼らの報告書はわかっているわけです。頭隠して尻隠さずです。だから、国家意思を発動するとき、政府は一番重要な事実は記録文書に残さないということを学んだ。一番大事なことを決めた時は記録に残さない。でも決めたんだから具体的な行動には移すわけですよね。意思決定をしている以上なにか記録があってよいはずですが。原爆調査であの膨大な科学者や政府機関を動かす以上、何らかの国家の意思決定があったのは明らかなんですが、それが(資料として)ないということは問題の特徴であるし、これはおそらく原子力時代の特徴であるかもしれないと思っています。

    ──原爆調査の歴史研究自体が問いとして封印されてきたところがあり、検証しようにも資料として証拠立てていけない。二重の意味で難しいですよね。そこで、笹本さんが本をまとめられたのが1995年。それに至るまでの研究をもとにお話しいただきたいのですが、まず、原爆の日米の合同調査とはどういうものであったのか、そして、どういう展開をみせたのでしょうか。

     アメリカによる原爆投下は第二次世界大戦の最終段階ですが、まだ戦争中だったという点が大事なポイントです。原爆被害の問題を見るとき、必ずそこがあいまいになってしまう。被害の話になると、突然ひどい話になるから、戦争が続いていたという観点がなくなる。ところがその当時、東京には政府があり、昭和天皇がいて、アメリカ含めた40数カ国の連合国軍と戦争をしていたわけですよね、日本は。だから、新兵器に関して当然攻撃された側の日本軍は、どういう兵器か調べるわけです。それが最初の調査で、もちろん日本軍が中心ですが、軍だけでは間に合わないので、京都帝国大学や大阪帝国大学の物理学者、当時の理化学研究所の仁科芳雄らを動員して調査を補強するわけです。それは一応、米占領軍が来るまでの戦時調査、純粋な戦時における軍事調査、兵器効果調査です。

     それから、1945年8月15日というのは僕にとってあまり意味のある日ではないけど、それが敗戦の日なのであれば、そこで軍事調査は終わっていいんです。8月15日、大元帥である昭和天皇は戦争が終わったという詔書を出し、8月20日には日本軍に復員命令を出した。それは兵士が市民になれるということですね。その復員命令が出たということは、軍隊の活動は全部終わっていいということです。日本軍の原爆調査も、やめていいんです、本来なら。ところが不思議なことに、日本の調査報告書を見ていると原爆調査を継続している。そこでまた、なぜか?という問題が起こるわけですよ。

     日本はポツダム宣言を受け入れたのだから、占領軍が進駐してくることもわかっているわけです。連合国軍(マッカーサーが連合国最高司令官と米太平洋陸軍総司令官を兼務)の中核は米軍で、原爆を作って投下した軍隊ですよね。それがわかってて、なぜ、その軍隊が使った大量殺戮兵器である原爆の効果を、被害を受けた国家が調べ続けようとしたか。これは戦争を考える時の一つのキーポイントです。こういうことは普通は絶対ありえない。たとえば日本軍が中国を侵略したときの南京大虐殺、この現場を日本軍の目の前で中国軍が調べられますか? これは絶対にありえません。もしもそういうそぶりを見せたら、日本軍は中国軍の調査の動きを武力で止めますよね。この日本軍を米軍に置き換えればいい。そんなことは日本側は百も承知なわけですが、でも原爆調査のときには、なぜ日本側はその常識を無視したのか。そこにはすでに、敵軍のマッカーサー軍と協力するという含みがあったんですよ。つまり、マッカーサーに対して「新兵器を使ったでしょ、効果を知りたいでしょ。一番知りたいのは人間に対して原爆がどういう効果があるかを知りたいでしょ。わかりました、私たちが調べます」ということです。だから米占領軍が来るのを待って、日本側が調査継続していったということです。これが一つのポイントです。

     そこにはおそらく日本陸海軍の大元帥である昭和天皇裕仁の意思がかかっていると思うんだ。それは見えない。資料がないから。もっと大事な日は1945年9月2日、つまり降伏文書へ調印の日です。これは公式の敗戦の日です。沖縄は違いますが。これから連合国軍が日本を占領し、その占領は講和条約締結まで続く。連合国最高司令官マッカーサーが天皇の上に位置することになったわけです。では、原爆調査はというと、それまで日本軍あるいは日本帝国政府の意思としては、原爆調査に協力すると決めてありますから、その証を示さなきゃいけない。その事に関して僕が見つけた資料は、米軍の原爆調査報告書にあったわずか2行の文です。降伏調印の翌日、その記録には、日本政府代表者が横浜のマッカーサー司令部に原爆被害報告書を提出したということが書かれてありました。その後、僕は日本側が提出した報告書がGHQで英訳されてファイルされてあることを知り、その英文報告書を見つけました。8月13日付と8月15日付の報告書が2本あるんですが、今のところ、それが唯一僕の仮説を証明する文書です。

     9月2日にマッカーサーは、日本占領にあたって「軍票」(日本の貨幣は通用できなくなる)を使うと脅かしたのですが、これは日本政府をなくして米軍が直接支配するという意味です。日本軍も中国侵略時に軍票を使ったわけですが、それを米軍がしようとした。日本政府はびっくりして、9月2日の夜中に当時の外務大臣重光葵が横浜のマッカーサー司令部に行く。9月3日の明け方でしょう。同じ時にマッカーサー司令部に日本政府代表者が原爆調査の報告書を提出している。ただしその経緯については、日本側の記録がまったくない。

    ──日本側の原爆調査報告書をアメリカに提出したことと、アメリカが軍票を使おうとしたこととのかけひきがあった、という仮説は成り立つのでしょうか?

     成り立ちます、具体的に。僕の全くの仮説ですけど、日本政府代表者というのは重光葵外務大臣じゃないとおかしいと思います。重光は軍票問題で米軍の参謀総長とやりあってるわけですよ。だから原爆調査の報告書を出すことは、恭順の意を示すことですよ。それは外務大臣クラスの人物でなければ効果は薄い。それだけ重要な記録なんです。米軍にとって報告書の中身は二の次です、これから日本を占領して米軍はいくらでも調べられるのだから。問題は日本政府代表者がなぜこの時に米占領軍に出したか、ということです。

     その報告書は僕がGHQのファイルから見つけたんだけど、最近、アメリカにあるマッカーサー記念館のファイルの中で日本政府代表者が提出した同じ英訳報告書があることを発見しました。そのファイルのタイトルはAtomic Bombで、日本側のこの報告書のみがファイルされています。僕が本(『米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本』)を書いてから10年経ってこのことがわかったのです。マッカーサーは報告書の意味をわかっていたと思います。敗戦国の責任者がなぜ自分のところへ原爆被害調査報告書を出してきたのかという意味を。

     マッカーサーとしても「はい、ありがとうございました」とは言えない。あれだけ大量殺戮しておいて、殺戮された側から「はい、どうぞ。自分たちが調べました」と言って調査資料をもらって、占領支配の正統性が生まれるわけはありません。本来ならマッカーサーは受け取ることを拒否すべきですよ、「調査はこっちがするべきことだ」と。でもマッカーサーは拒否しなかった。資料が欲しいから。それが第2の話になります。

     それから何が起こったか。日本政府は学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会を、9月14日に設置します。これはすごい組織で、当時の自然科学系分野を全部網羅した組織です。物理学・化学・地学、生物学、機械・金属材料、電力・通信、土木・建築、医学、農学・水産学、林学、獣医学・畜産学の9つの分科会を作り、協力官庁は内務省、情報局、日本陸海軍省、司法省、農林省、厚生省、その他、つまり当時の大日本帝国が総力をあげて作った調査委員会です。これが新しい展開です。そして、マッカーサーはこの大調査を容認した。それが新しい始まりです。

    ──その大調査団は人数的にはどのくらいの規模で、予算的にはどのくらいの規模だったのですか。

     都築正男が1954年のビキニ事件の直前に書いた文章で、9分科会の予算が300万円と言っています。僕が知っているのはこれだけ。他は個別に、九州帝大医学部で使ったのが60万円など、部分的にわかるのはありますが…。都築正男は医学科会の科会長ですが、これも少々おかしな話です。というのも、東京帝国大学医学部長には田宮猛雄という人間がいて、都築は外科の教室主任だった。本来なら組織的には医学部長の田宮猛雄が医学科会長になるべきなのでしょうが、なぜ外科教室主任でしかなかった都築かというと、当時都築は海軍軍医中将だったからかもしれません。軍医中将という位は軍医としては最高の地位でした。だから原爆被害というのは彼から見れば「人体に対する兵器の効果」であり、その効果の調査なんです。人体に対する兵器の効果・被害は、当時の日本軍の用語では「戦傷」と言いますが、この戦傷の研究は軍医の任務でしたから、当然軍医中将であった都築は戦傷研究をしていた。田宮は行政上は医学部長でも、軍医ではなかったんですね。

    ──その都築の記録の中に予算の記録が……。

     都築は「300万円」と明らかにしています。僕はその記録しか見ていないから…。それにしてもこれは大変な金額ですね。調査に関わった人間の人数は正確にはわからないけど、9分科会のうち医学科会が最も多く、助手を入れて1,400人と言われています。他の科会は正確にはわかりませんが、それにしても相当な数ですね。

     『軍縮地球市民』第2号(2005年夏)にも書きましたが、2004年に東京大学総合研究博物館で開かれた特別展示「『石の記憶-ヒロシマ・ナガサキ』被爆試料に注がれた科学者の目」を訪れたときに出会った資料がたくさんありました。渡辺武男は当時東京帝国大学地質学教室教授で、学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の物理学・化学・地学科会の委員の一人でした。資料の一つに、1945年9月14日付で文部省が渡辺武男に対して発行した「身分証」がありました。それには渡辺を「特別委員会ノ調査員タルコトヲ證ス」とあるのです。僕が初めて目にする文書でした。それを見て改めて、当時の大日本帝国政府は本気で原爆調査をしようと思ったんだということを本当に実感しました。マッカーサーという敵軍の最高司令官がいて、その目の前で文部省がぬけぬけと身分証明書発行しているんですよ。「はい、どうぞ。広島、長崎に入ってください」ってね。そのことが何を意味するのか。

     その身分証明書の現物を見てもう一つ思ったのは、何十人と委員がいたわけですが、僕は、他の委員の身分証を見たことがないんです。僕が見たのは渡辺武男のものだけ。彼のところにあったということは他の委員にも発行されていたはずです。このような重要な資料がこれまでまったく公開されてこなかったところにも、原爆調査をめぐる深い闇の部分を感じます。

     また、非常に重要なことですが、マッカーサーがいつこの原子爆弾災害調査特別委員会の結成を知り、結成を容認したかを知りたい。でもそれに関してマッカーサー側の記録もない。一番大事な情報は為政者同士ですっと消しちゃうということでしょう。マッカーサーが容認したことははっきりしている。さっきも言ったように、戦勝国による占領統治の常識で言えば、勝者が負けた側にそんな新兵器の効果調査を許すなんてありえないんです、どんな戦争であっても。

     それを問題にしなかった、今まで日本で語られてきたヒロシマ・ナガサキの思想って何だ、ということにもなるわけです。最初から丸ごと相手に全てを売り払っておいて、そのことは黙ってきたんですよ。これをどう理解したらいいか……。10年経っても今もってなかなかうまく言葉に出てこない。

    ──その大調査団に属した科学者たちは、自分が受けた命令がどこから発せられ、どういう役割をふられ、結果的にどういう目的で使われる調査であるかということを、どの程度認識していたんでしょうか。また、それを記録として残している人は本当に皆無なんでしょうか。

     それは僕が今頭を悩ませている問題でもあります。ほとんど手がかりがないから。でも文部省の管轄下に学術研究会議がある以上、命令は当然、文部省から出ていたはずです。その証拠は先の身分証明書です。渡辺武男が残した資料の中には予算書もありました。予算支出項目は科研費です。渡辺武男の科研費も何万円かわかります。でも記録はそこまでなんです。他の委員の科研費の予算はわからない。

     個々の科学者の問題でいうと、科学者にとって非常に重要な問題だから、僕は慎重に考えています。つまり科学者の責任に関わってくるから……命令がはっきりしないと責任がとれないから。でも命令がはっきりしません。もう一ついうと、組織上、当時の文部省の中でこういう調査を扱っている部局は科学教育局で、初代の局長は山崎匡輔。そこまではわかっています。二代目の局長は茅誠司、それもわかっているけど、具体的に茅が何をしたとか、山崎がどうしたとか、そういう資料はないんです。山崎匡輔文書は昔の国立教育研究所、今の国立教育政策研究所に入っているけど、今言うような資料はない。山崎の上の地位にもまだ人はいるでしょう。でもそれもわからない。しかも当時の帝国政府の官僚組織で言うと内務省や陸海軍省などがあるわけだから、そっちが出てこないと話にならない。つまり陸海軍と話した上でやっているんだから。でも陸海軍の記録はない。ここでも「頭隠して尻隠さず」。

     科学者がどこまで認識していたかということは、僕にとって一番つらい部分ですよ。彼らは、自分たちがこれだけ屈辱的な──あえて倫理的な話なのであえてそう言いますが──敵が原爆で同胞をあれだけ殺した、その中に外国人もいましたが、その現場に調査に入ることが何を意味するのか、百も承知だったと思います。でもそれをその後、科学者たちは何も言わないということが大問題です。

     彼ら第一線の科学者が、マッカーサーのために行う調査の意味をわからないはずがない。どんな屈辱を感じたか。そのことをなんで言わないか。人間として、個人として、そういう屈辱感を言えないよう縛られてきたのは、それが国家の命令だからです。そのことを逆証明しているのが報告書に関わる問題なんです。科学者たちは自分たちが調べた報告をまず日本語原稿にし、それをタイプして英文原稿にする。その英文原稿はマッカーサー(GHQ)に提出します。報告書を英文にして日本語と同時に提出するよう命令されていたから、彼らはそれを忠実に行った。渡辺武男のあるお弟子さんが特別展示のシンポジウムの時に証言しましたけど、「私は渡辺先生と公私にわたりつきあったけれども、私が先生の研究室に入るときに唯一先輩たちに言われたのは、絶対に先生に原爆調査の話を聞いてはいけないということでした。だから私は生涯先生と親しかったけれども、原爆調査のことは一回も聞いたことはない」。つまり渡辺さんは沈黙した、この調査に関して。この沈黙の意味を僕は考えます。

     この沈黙は渡辺武男の屈辱感の表現だと僕は理解します。何百人何千人といた科学者は何一つ言わない。仁科芳雄も黙っている。これだけの大調査団が動いているわけですよね、その中の誰一人として、マッカーサーに報告書は渡さないといった反乱的行為を一切起こしていない。不思議なことですよ。なぜかと言えば、それは自分たち科学者の位置をわかっているから。それまでの中国侵略、朝鮮半島などの植民地支配に対して自分たちがどういう位置にいたかを、百も承知だから。マッカーサーへの協力はその裏返しでしょう。そう僕は認識しています。

     でもみんな黙っているんだったら、僕のように後からきた人間はその歴史に入り込めないわけよ。自分たちの報告書をマッカーサーに渡せるかといって、死に物狂いで抵抗しようとした人がどうして一人もいなかったのか……。ちなみにマッカーサーからは、英文の報告書を1部作り、日本語を5部作るように命令が入っている。その命令に対してみな実に忠実に従っている。それで英文の報告書はGHQのファイルに残っているのです。180本以上も。見事なまでです。この荒廃というのはひどいな。しかもそれに対して、当時最高の知性を持った人たちが、今もって口をつぐんでいる。

    ──引き合いに出して、ご本人はつらいかもしれませんが、加藤周一さんが『羊の歌』で──当時は東大の血液学教室の助手だったかな──その記述が少し出てきますね。命令を受け、派遣されていった、調査の中で没頭する日々があったという記述が2ページくらいにわたって出てきたと思いますけれども、それだけ読んでも、原爆調査が誰が何を意図して行なったのかについては触れないままで、その時の印象しか語られていませんね。それでもその記述はきわめて例外的な、本当に稀な例だと思いますが、きっと彼のような立場の人は膨大にいて、今おっしゃったように、本当はわかっていた、わかっているが故に口をつぐんでいる、という構造がずっと続いているのだと思うんです。

     僕は本で加藤周一さんのことを書いていますから、僕の本が出た後、おそらく何人もの人が加藤さんに接触を試みているでしょう、加藤さんは会うことを全部拒否しているはずだけどね。あまり個人のことは言いたくないんですけど、せめて加藤さんしかいないんですね、原爆調査に従事した人でああいう風に語っている人は。今年の3月10日の朝日新聞夕刊の連載「夕陽妄言」で加藤さんが、いわゆる米軍の東京大空襲のときの随筆で、当時を回想していた。その記事を強烈に覚えているんですが、加藤さんは医者として書くんですね。当時米軍の空襲で戦災者が傷つけられて来ると、私は医者だから治すために治療するんだと書いているわけですが、突然8月6日の話になり、加藤さんは調査と観察のために広島に入ったと書いていた。治療のために入ったとは書かないんですよ。彼には僕の本を送っているから、読んでいると思うんですよ。それでなおかつ、調査と観察のために行ったと書くんです。

     国から命令されたとなぜ書けないのか。なぜそこまであなたを国が縛るのですか、と僕は言いたいです。加藤さんでもそうなんです。これが原爆調査問題の底深さです。そこには個人がいなかった。個人の自由がなかった。ならばそれを認めなさいよ、もう。思想の自由も学問の自由もなかったんだから、あなたは一つの部品として動いたんでしょう、と。でも部品ではなく人間なんだから、もう声をあげて下さい……。僕の加藤さんへの思いはこういうことです。

     だから僕は原爆調査に関わった人間の名簿を作って本に入れた。あれは報告書を元にして作った名簿です。実際に参加した人間はあの数倍いますよ、あるいは数十倍はいますよ。延べにすれば何万人ですよ。現地の陸海軍の兵士なんて入っていないからね、看護婦さんとか全部入ったら……。

     繰り返しになりますが、原爆被害国日本がなぜ、ここまで敵国アメリカ、原爆投下国アメリカに対して国家をあげて調査協力したかという問題は、60年経っても70年経っても語り継がなきゃいけない問題ですよ。それまで日本帝国が行った全ての植民地支配、中国などへの海外侵略の総仕上げなんですよ、これは。その歴史があるから、この原爆調査を日本側は本気でやったんですよ。

     あの原爆被害者の姿を見ていたら、敵が使うのをわかっていて報告書を作って、果たして敵軍に渡せるものなのか。米軍が来て、報告書を出せと言われたが、渡さなかったので米占領軍の軍事裁判にかけられた人間がいたといったような話が一つでもあれば、僕はこんな本は書かないですよ。でもそうした日本側の抵抗は本当に皆無なんです。

    笹本:戻りますが、日本側の原爆調査団はそうやって1945年の暮れまで動いて、調べ、報告書をどんどん書きます。マッカーサーはそれを黙って見ておいて、特別委員会は総会を3回も開いています。調査内容を持ち寄って、発表しているんです。占領下でそうした報告会を開くことも全部許されているんです。それから、「神話」としてみなさんが引っかかりやすいのが、米占領軍が報告書を一方的に持っていった、という話です。とんでもありません。日本側の調査団の手元には180本以上の日本語の原稿が残っているんです。マッカーサーが学術研究会会長の林春雄に出した命令書によると、報告書は公表されては困るけど、内容については内輪で話してもいいと言っているんですよ。ここが第2点。医者だったら現場に行って、患者さんとしての被害者に会ったらどうするかという話をお互いにしても当然ではありませんか。帝国大学のすごい人たちが行ってるわけですが、その医者たちは、もはや医者じゃないと思いますね。目の前に起きていることを自分たちで調べ、3回も総会を開いて発表しておきながら、医者や科学者たちは一度たりとも時の首相吉田茂に「これだけ被害がひどいんだから、被害者のためになんとかしてくれ」って要望書を出すことすらしなかった。きっと人間が人間ではなくなってるんだ、科学者である前に。そしてそこをごまかしたから、全部その後の歴史がおかしいんですよ。みな米軍の悪口しか言わない。その悪口もいい加減なことしか知らないで言っている。

     繰り返しになるけど、それまでの1945年8月までに大日本帝国が明治以降行ってきた侵略戦争の結果がこれです。米占領軍への原爆調査協力は本気でやった。いい加減じゃないです。本気でやったから、マッカーサーも本気で受けた。あるいは本気でやらなかったら、マッカーサーは本気でやれと命令したでしょうが、むしろマッカーサーが命令しなくていいくらい日本側は本気でやったんでしょうね。報告書の質についても、渡辺武男のお弟子筋の東京大学の教授に「渡辺さんの報告書の質はどうですか」と聞いたら、「きわめて高いのが出ている」と答えた。敵に渡して一番喜ぶ報告書を自分たちが作って、何の痛みもないのか。質が高い方がいいんですよ、米軍にとっては。もう一つ言いましょう。増山元三郎という統計学のプロがいますが、彼が作った原爆死傷者報告書はとても質が高いから、米軍の報告書に使われている。

    上田:──彼は最近(2005年7月3日、92歳)亡くなりましたね。

     軍隊には、新兵器がどれだけ人間を殺すかという正確な統計が必要なわけですが、それを増山元三郎がやった。増山にとって、それが敵に渡って、どう使われるかということは眼中にないわけで、彼は今でもあの調査を誇っている。原爆というものはそこまで人を麻痺させるのか、という言い方をすると語弊があるかもしれませんが、そもそも原爆を使ったアメリカは最初から麻痺しているわけですね。米軍による調査記録も残っているが、その記録の意味というのは空恐ろしいです。倫理的な観点から見ると、米軍当局者は全然痛みを感じていない。記録のとり方といい、「被害者」に対する見方と実に見事に冷酷な視点は一貫していると言えます。

    ──そうですね、それを典型的に現しているのがABCC(原爆傷害調査委員会)のような組織だと思うんです。

     そこにアメリカの度し難さがあるわけですが、それに輪をかけて日本がずっこけちゃったんです。ずっこけるって、正確な言葉じゃありませんが、繰り返しになるけど、なぜ日本側はアメリカにあそこまで協力したかという問題が残るわけです。

     もう一つ言うと、この本を出版する年の1995年8月に友人と韓国に行ったのですが、その友人の知り合いの若者で、一橋大学で朝鮮半島の南北分断の研究で博士号をとって帰国したばかりの韓国人歴史研究者に出会いまして、その人に僕の本の話をちょっとしたんです。そうしたらその人が驚いて、そんな話は聞いたことがない、と。で、その年の11月に、出来た本を彼に送ったらすぐにソウルから国際電話があって、この本を韓国語に翻訳したいと言ってくれた、あれは本当に嬉しかった。こんな本が韓国語で翻訳・出版されることは容易ではないとは承知しています。でもその若者は自分の国で紹介したいという作品として読んでくれた。彼の目から見たら、この問題は透けて見えるんですよ。マッカーサーに協力する日本政府の姿は、かつての日本軍を理解している人には、日本によって植民地支配を受けた韓国の若者には一発でわかる話でしょう、日本人の側からわからないだけです。そのことを知るべきですよ。アメリカという主語を入れずに原爆被害を語る、という問題もそういうことなんです。

     例えば韓国人たちから、この問題はどうなっているんだと広島市長が問われたとしたら、広島市長はどう応えるのでしょうか? 日本にいるから見えなかった。それからアメリカからも見えないんだね。先に話したように、アメリカにしたって本来恥ずかしい話のはずでしょう。というのも、これが従来の戦争ではなかったということ。つまり原爆というのは、敵も見方もどこかで融けさせてしまうんですよ。それで一番犠牲になるのは誰かというと一番弱い人ですよ、女性、子供、それにこれから生まれてくる人たち。これから先は、そういう話になります。

    ──ABCCの調査は、いわば今も続いている調査としてあるわけですけれど、原子爆弾という人類がその時初めて経験したものがどういう生物的効果を持っているかを、これだけの規模で継続的に行っているという事実。その出発時点の組織のされ方とか、日本がどう関わり、どう受け継いできたのかというそのあたりのお話を。

     まず原爆調査の初期調査というのがあります。それはデータを取るだけ。それは主に日本側のあの大調査団がやったわけですけど、その後、アメリカの方も状況が戦時体制から平時体制に移っていって、マンハッタン計画を1946年いっぱいで閉じます。そこで1947年1月1日からアメリカ原子力委員会(AEC)というのが作られました。これは1946年8月にできた「1946年原子力法Atomic Act」に基づきますが、そこから表向きは新しい体制になるけれども、本質は要するに、平時において原爆製造体制を維持するというものです。日本では占領軍による民主化などと言っておきながら、アメリカ本国では平時になったのに戦時体制の強化をしている。これは日本からなかなか見えないでしょうけど。

     その時のアメリカの戦後体制の徹底的な強化というのは、原子力委員会を作った、それから中央情報局(CIA)を作り、国家安全保障会議(NSC)を作り、さらに国防総省(DD)を作った、この4本立てです。この権力機構強化の意味はなにか、その中で原子力委員会を考えなきゃいけない。つまりこれは、対原爆戦争を想定しているわけです。その想定の中で、実際に自分たちが使った当時の原爆という兵器をどう考えるかという新しい問題が出てくる。

     そこで「効果調査」をすること――被害とは、やった側としては効果で、受けた側としては影響ですけど――人間に対する効果調査は二度とできないわけだから、ここに焦点絞ったんですね。そこで、それまで出来なかった「遺伝調査」が根本に据えられ、非常に長期の調査として設定される。このための組織が、アメリカ本国に作られた原子傷害調査委員会(Committee on Atomic Casualty、CAC)で、その日本現地機関として原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC) が設置された。日本側はどうしたかというと、今度は厚生省所轄として新しく作った国立予防衛生研究所の支所を、広島、長崎、呉に作ります。正式名称は原子爆弾影響研究所といいます。原子爆弾影響研究所のことは日本ではほとんど問題になっていませんけど、実は大事なんです。被害国が作った「原子爆弾影響研究所」ですからね。これは国立の機関で、アメリカのABCCの“対”の組織として存在するわけです。そこで長期調査として設定したもので一番問題なのは、遺伝計画(Genetic Program)です。そのために原子爆弾影響研究所とABCCが共同して調査します。日本政府は何回か原爆被害調査計画書をGHQに提出しています。

     その遺伝調査とは具体的に言えば、広島、長崎でアメリカが投下した原爆によって被害を受けた女性、特に妊娠していた女性から生まれてくる胎児を全部調べ上げたんです。そのために比較対照群を設定する必要が出て、都市レベルの比較対照群を設定するんです。広島市、長崎市の比較対照都市として――Control Cityって英語を使っているんですが――呉市を設定する。ある母親のグループを設定したら、それが被害者の設定であれば、それと対になる比較対照群(Control Group)を設定するという方法論を使うのが人体実験として重要なわけです。ということはこれは完全な人体実験なんですが、僕が英語の表現でびっくりしたのはそのControl City っていう言い方です。最初はControl Cityって英語の意味がわからなくてね、中山茂先生に「Control Cityってどういう意味でしょう」と尋ねたら「普通Control Cityって英語を使う場合は“管理都市”だ」と。「でも先生、こういう原爆調査における言葉です」と説明すると、先生も驚かれたぐらいに、一般化されていない表現ですよ。

    ──もともとは疫学用語のCase-control study(症例対照研究)という言葉がありますよね。

     それをControl Cityなんて言葉使っている例はないですから。それまでの初期調査では、コントロールグループも何も、データを集めるだけだったわけですが、この後は科学的方法に基づいていく。対象は人間であり、なおかつ妊娠している女性、そしてそこから生まれてくる胎児です。その実験を日本政府の協力を得てやれたわけです。具体的には、妊娠している女性をほぼ全部把握して、妊娠5ヶ月目に妊娠登録して母子手帳が発行される――妊娠5ヶ月目に申告すればみんなもらえる。これは児童福祉法に基づいた制度ですが、これには国籍条項がないのです。ですから外国人女性も対象になる。在日朝鮮人の女性で妊娠した人も入っている可能性があるのです。――それに登録した人をずっと追跡調査する。妊娠終結という言葉を使ったんだけど、出産すると、その段階で一人一人調査するわけですね。実際に担当するのは当時の助産婦さん、それから産婦人科医です。当時90数%は自宅出産ですから、当時の助産婦制度に基づいて把握すればいいのです。大体1947年から始まって、1951年くらいで一段落し、まとめの発表が出ていますが、それを見ると、妊娠登録が7万数千例です。ということは、おそらく全数調査だと思うんです。

     そして、広島、長崎、呉で、助産婦さんに対してアメリカの医師が、調査方法について講習会を何回もやっている。その記録もGHQのファイルにちゃんと残っているし、助産婦さんの人数は原爆被害によって相当程度減ったと思いますが、生き残った助産婦さんは何百人しかいないはずです。その何百人の人が7万数千例の妊娠登録を扱ったということは、計算するとわかりますが、一年に一人が数百件扱うでしょうね。そして日本政府の原子爆弾影響研究所の予算(原子爆弾影響研究費)では、妊娠登録の手続きをした人に対してボーナスを出していますね。一件登録した場合20円、ある特別な場合に登録した場合一件あたり50円。ということは7万数千例掛ける50円を掛けると何十万かになるんですよ、当時のお金で。それで実際にその金を厚生省は払っていますね。そういうことをずっとやって、現場の産婦人科医もずっと把握して全部報告させている。これも全部米占領軍のGHQの記録に残っているわけですけど、僕はこれを調べていて、本当に「ここまでやるか…」と思いました。

     妊娠登録するのはふつう妊娠5ヶ月です、5ヶ月以前に登録されていないものの流産する場合があるわけですが、その5ヶ月前の流産例まで全部洗い出している。具体的に言うと、産婦人科医をしらみつぶしにあたっていくわけで、ある年なんて1900例も洗い出しています。その上ご丁寧に、胎児まで解剖しているという記録まであるんです。つまり、ありとあらゆる出産を全部把握して、そして登録して、追跡調査して…。アメリカ、日本の為政者にとって、一番大事なのは実際の人間に放射線なり、原子爆弾の影響というのがどういう形で出るかということ。次の世代に影響がどう出るかを、まず一番にあからさまに調べていく。例えば、奇形の例を50例くらい挙げて、Aという女性の乳幼児はこういう事例であると調べていく。実は児童福祉法の母子手帳制度には奇形の登録というのがあって、それを使っているんだけど。その中の一つに、今で言う原爆小頭症という、頭が小さく生まれてくるために知能の発達が遅れる、というのがあります。そういう小頭症の例も早い時期に把握していますね。

     遺伝というのは何世代か渡った後に発現してわかるんだけど、彼らの言葉では、そういうことを調べるのに最初から妊産婦調査、乳幼児調査を「遺伝調査」だと言っているんですね。アメリカの原子障害調査委員会(CAC)と国家研究評議会(NRC)は、この遺伝調査計画を声明として、雑誌“Science”(1947年10月10日号)に公表しました。それから、僕に理解できない面ですが、今言ったような大量殺戮兵器を使った現場で行われている調査のことを、アメリカでは“Life”という家庭雑誌が1954年7月号で写真入りで紹介しているんです。アメリカ人の医師が日本人の助産婦に対して行った講習がありますが、その時の写真を見せる。他に赤ん坊が寝ている姿の写真など、今広島ではこういうことをやっていますということを、アメリカの家庭雑誌が紹介しているんです。これがアメリカの本質だと思わざるをえない。人体実験しておいて、その状況を家庭雑誌で出してしまう。日本もひどいことしましたよ。でも七三一部隊に関する現場調査の写真を日本の家庭雑誌に発表していますか? それをアメリカはやったんです。

     “Science”の記事だって、女性に対する徹底的に侮辱的な人権無視の調査計画を淡々と公表しているんですよ。そのことをあわせて考えないと、だめでしょう。だから繰り返しになるけど、原爆問題を語るときアメリカという主語抜きではいけない。
    ──その通りですね。

     雑誌“Life”の写真は一見の価値ありです。

    ──雑誌“Life”と同様の写真は、スーザン・リンディーM. Susan LindeeさんのSuffering Made Real: America Science and the Survivors at Hiroshima(University of Chicago Press, 1997)という本の中にも…。

     ありますよね。このようにはっきりとした形で残っているんです。アメリカの国家研究評議会(National Research Council、NRC)の図書館にファイルがあって、そこにも残っています。つまりモルモットにしている人たちを何の痛みもなく、公表しうるということがアメリカの戦後なんですよ。いかにも鈍感です。でも、ならば日本はどうなってるのか、ということになりますが、ヒロシマ・ナガサキの思想にはそれをオーバーラップさせる力がない。

    ──そうですね。原爆被害者の批判の中には、ABCCという組織に対して「調査はするけど治療はしない」という言葉が何度も出てきますね。もちろんそうであったとしても、二つ問題がありまして、なぜそれが可能なのかという問いには行かない。それから、実は日本も協力しているんだというところにも行かない。そのことを私たちはどう考えていったらいいか、という問題があります。それを見るために押さえなければならないのは、このデータがアメリカでどう活かされたか、そして日本が協力したことが戦後の日米関係をどう決めたかということ。これは、資料を通じて歴史的に検証していくというところまで踏み込めない限界はあるとは思いますが、やはり仮説的にでも語っておく必要はあると思うんです。

     きびしい質問です。今も私は頭を悩ませている。つまり、今おっしゃったような問いがなぜ提示されなかったかが実は一番大きな問題であってね。疑問を疑問として出せなかったということが一番の根本の問題なんです。材料はたくさんあるわけです。でも、今でも現にそうですが、原爆被爆者の皆さんも、またいわゆる被爆者の子供(いわゆる被爆二世)のみなさんも、原爆被爆体験を語るときには、上田さんが言ったとおりのことしか言わない。ABCCは治療をしてくれないひどい機関だ、アメリカはひどい、これで終わり。被爆二世の人だって、実際に遺伝調査を受け続けているわけですが、いかに日本人が、日本政府が関わっているかということの問題点があまり出てこない。実態が見えていないと言わざるを得ないんです。つまり広島、長崎ではABCCというと「神話」が出来上がっている。

     ABCC体制についてみんな誤解しているのは、当時の1947年に作られた組織でいうと、調査体制の人員構成比は9:1で「9」が日本人職員なんですが、みんな逆に考えている。原爆被害者が亡くなった直後、「解剖のために死体をくれ」といって、広島市の比治山(ABCCがあるところ)の上から黒い自動車が来るという話は、僕は色々なところで聞いたり、本で読んだりしたことがあります。その自動車を運転していたのは誰でしょうか、ということです。運転手はアメリカ人ですか、違います。日本人で、厚生省に雇用された人たちです。調べればすぐわかります。ここが「神話」です。かつて僕はこれらのことを書きました(笹本征男「放射線影響研究所と原爆被爆者」中山茂・後藤邦夫・吉岡斉編『通史日本の科学技術5-1〔国際期〕1980-1995』〈学陽書房、1999年〉)。しかし、日本側の組織名が厚生省の「原子爆弾影響研究所」であるということはまったくといっていいほど語られないのです。

     今の放射線影響研究所(放影研)──1974年に原爆傷害調査委員会(ABCC)と原子爆弾影響研究所が改組されて、放影研となった──の予算支出がわかっていまして、ほとんど人件費なんですが、1995年当時20億円ずつ、アメリカ政府と日本政府で出しているわけですよ。その使い道がほとんど人件費で、人員構成比は9:1でしょ。おかしいですよね。だって、アメリカ人研究者に対してアメリカで使っている20億円の人件費を計算すると、研究者10人とすると1人1億になる…ありえないですよね。そこで放影研の会計部門の人間に質問したら、そういう計算はしていません、と。どうしているかというと「日米折半でやっている」って。これが本質でしょ。こうやって、突っ込めばいくらでも出て来るんですよ。もしもアメリカ人研究者の予算が2000万だとしても、2億でしょ、あとの18億どうするんでしょう。それは日本側にいってるんじゃないの、という話に当然なりますね。でも、どこもこの話に突っ込まないんです。

     広島、長崎でも今もって、「神話」で固められているから、隣にABCCに勤めている人がいたって見ないんです。周りにたくさんいたはずですよ。でも「神話」によって見事に思考力が失われてしまって、そのことに気がつかない。だから、僕がこういう話をしてもおそらくぴんとこないんではないでしょうかね。

     今の予算の話に関連して言えば、原子爆弾影響研究所とABCCが行った、遺伝計画を含めた当時の1947年から1951年までの調査に日本側の使ったお金、原子爆弾影響研究費と言いますが、それがしめて3000万円以上とあって、厚生省は当時の1951年度の国立予防衛生研究所の年報に公表しています。3000万円といえば、巨額な金ですよ。ところが、その公表されている事実も、僕がこの本に書くまで誰も取り上げて問題化しなかった。この問題は大きいです。触れなかったことは、いろんなことを意味します。典型的には、広島市と長崎市が編集主体になって1975年に発行した『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店)でも、この点には一切触れていません。この本は1975年までの研究の集大成なのに。でも、その後も誰も触れていない。なぜ触れなかったかということを、僕はこれから問題にしていこうと思う。その事実を明らかにしておかないと、結果的に広島市、長崎市はアメリカ政府の犯罪的な行為に協力している日本政府に加担していることになります。共犯関係になる。それがばらせないからABCCの神話が生まれるんです。というより、むしろよABCC神話が必要なんでしょう。なぜなら、国家予算の3000万円の金が広島県、長崎県、広島市、長崎市、呉市に流れているのであって、その補助金がどう使われるか、現場では百も承知なわけですよね。それを伏せるということです。で、一番大事なことを伏せるから後からいくらでも覆わなきゃいけないわけですよ、それがABCC神話です。知っていて踏み込まない、これを確信犯といい、共犯者なんです。確信的共犯者、刑法の用語では共同正犯といいます。そういう状況が続いている。だから広島市及び長崎市は地方自治体として、国の原爆調査との関係においてそれぞれの責任を明確にし、無限責任を取るようなことは言うべきではありません。市としてはここまでの責任しかない、ということをはっきりと言うべきです。

     これが日米関係にどう影響しているかを僕は一番調べたいんだけど、なかなか難しいのです。それは新しい政治学の、日本の戦後の歴史学の根幹なんですよ。だから新しい方法論がいる、新しい言葉がいる。僕は今ずっとその周辺を洗い出しているんですが。原子爆弾という大量殺戮兵器の被害あるいは効果をめぐって、原爆を使った加害国と被害国が共同正犯関係を結ぶ、そんな事例は歴史上そんなにないんです。そして、ABCC・原子爆弾影響研究所(現在の放影研)という研究組織の存在もこれまでの戦争の歴史上ないと思うんです。ないということを僕らは認識できない、ここが重要なことですね。あって当たり前だと思っていることを問うことです。

     僕はつい最近友人と「ヒトラー最後の11日間」という映画を見ました。ヒトラーが最後に自殺するまでの11日間が克明に描かれていますが、それを見て、やっぱりドイツという国は戦後あそこまで描かなければ生きてこられなかったのだ、と感じました。例えば映画では、ヒトラーは、絶対に自分の死体を敵国の相手に渡すなと言って、妻のエバともに自殺するわけです。そして、地下室から彼らの亡き骸が引き上げられ、側近が遺体にガソリンをかけて、焼く場面まで描かれている。火をつけ、炎がバーと上がった瞬間に、周囲で整列していた側近が「ハイルヒトッラー!」と右手を挙げて、あの挙手の礼をする。これを映像にするところ、これが戦後のドイツだとわかった。宣伝相のゲッペルス夫妻も同じように服毒自殺して、側近が遺体を焼くんです。同じ場所で。これが戦争に負けるということなんです。そして戦後ドイツがそういう映画を作れるというのは日本とちがう、逆に作らざるを得ないということでもあるでしょう。例えば東条英機は1945年9月11日にピストルで自殺しようとして失敗し、その後、東京裁判で死刑判決受けて、絞首刑になりますが、東条の絞首刑の現場をここまで描けるでしょうか。きっと描けませんよね、日本では。

     つまり、戦争に負けるという意味からいうと、この原爆調査のようなことありえないんです。だからナチスドイツは、ヒトラーが自殺したからドイツ政府はなくなってしまうわけですが、例えば彼らが行ったユダヤ人強制収容・大量殺戮の際に、ユダヤ人に対していろいろな医学実験も行いましたね。もしもヒトラーが生きていて、ドイツ政府が健在で、連合国軍がドイツに進駐したときに、ドイツ政府が「私たちはひどいことをしたんだけど、それと取引して、私たちが行った医学実験について一緒に研究しませんか」と連合国のアメリカやイギリスに提案したなら、ドイツにABCCと同じものができるでしょうか。でも決してそんなふうにはならないでしょう。同じように七三一部隊の大連研究所と同じものを、戦後中国政府が作ったとしたら、やっぱり異常なことでしょう。でも原爆ではそれが起きていて、大量虐殺の現場に60年間そういう組織があるわけです。そこまで僕は言葉にして書きますが、でもそこまで書いても伝わらないんですね、このことの意味は…。

     原爆をめぐるこの問題は、いわゆる日米安保体制下における日米の従属関係とか、従来言われているそんなことじゃないんです。1945年の敗戦・占領の時点から、日米は原爆問題をめぐってこういう関係になっていた。このことは一体どう表現したらよいのでしょうね。アメリカ政府だけでなく、日本政府もこれだけ被害者を侮辱し、屈辱を味合わせて、なおかつ自分たちが繁栄する体制を築いた。これをどういう言葉で表わしたらいいか、まだ見つからない。ただ一つ僕は「原爆加害国になった日本」という言葉を作りましたけど、それでも足りないから、結論をどうしようかと…。この「原爆加害国となった日本」の定義をどうしようか考えているわけです。

     それからもう一つ、日本の特色は、関係者の内部告発がないということです。これだけ屈辱的なことをやっておきながら、なんで恥ずかしいという一言も出てこないのか…ひどい話です。放影研の話になるとすぐに「日米共同研究」などという言い方になって、しかもかつての理事長の重松逸造は新聞で、「放影研は被爆者の福祉のためにやっている」という発言したことがあります。そもそもアメリカ政府が被爆者の福祉と健康のためにやっているということはない。でも、そんなことはありえない。なのにこの問題のプロ中のプロである人物がさらっとそう言ってしまう。それが日米関係でしょう。これは本当なら僕みたいな一人の人間の力だけではなくて、いろんな学問分野の人たちが全部集まって、議論し直すべきものです。もちろん科学者を含めて。そして、何かとても考えにくいことが起きているな、ということを共通認識にして、新しい言葉を作って、新しい思想を作るということ、これしかないですね。

    ──そこに行くためにも、どうしてももう一回見なければいけないことが、現在の原子力体制でしょうね。アメリカがこの原爆を落とした当時、あるいは原爆調査をやっていた期間、このデータをどこまで核開発と原子力開発につなげようという見通しを持っていたのか…。ご存知のように放射線のリスク管理はICRP(国際放射線防護委員会)が元締めになってやっていますけど、その根幹となる線量評価体系DS02で使われているのはヒロシマ・ナガサキのデータですよね。そのリスク評価を使いながら、原子力や放射線の利用を拡大し、巨大な産業にしてきた。今ではアメリカと日本、そしてさらにいろんな国を含めて、強力な原子力推進の体制ができています。今言った「原爆」と「原子力」をつなぐ部分は、やはり笹本さんがおっしゃるような、タブー視される、非常に触れて欲しくない問題としてあるのは、明白だと思います。ですからそこに切り込むには、本当に歴史家としてある種の勇気とが必要だと思うんです。そして、歴史研究というものが「現在」に深く絡まっている、その現在の絡みを自覚しつつ、その問題を解いていくというやり方が、今まさに本当に必要とされているんですね。

     それについては、僕がいつも還っていく言葉があります。「全ての歴史は現代史である。歴史とは現在と過去との対話である」という歴史家のE・H・カーの『歴史とは何か』の中の言葉です(正確な引用は次のとおりです。「すべての歴史は『現代史』である、とクローチェは宣言いたしました」「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」)。過去と現代の対話を常にしなければならない、そうすると、「今生きている人間としての自分は何か」ということが問われるわけです。ヒロシマ・ナガサキの被害状況というのは、考えれば考えるほど底知れないわけですが、だからこそそれを見る目と、語りが常に問われるわけですよ。「歴史は現代史である」という言葉の「現代史」です。「現代」(英語ではcontemporary )とは何かということなんですよ、60年経ってもね。その視点をもって見ないとだめなんですね。

     そういう姿勢で具体的に考えていくと、為政者が触れて欲しくないということは常識的にわかるわけですよ。アメリカがヒロシマ・ナガサキに投下した原爆で言えば、人間や生物に対して与えた原爆の影響、効果、これは絶対知りたいけど、いくら知ろうとしても知れないわけです、人間の力では。そういうことが根本的にある。だから原爆被爆者が絶えず言いますよね、「あの体験は人には伝わらない」と。どんな人間の能力をもってしても、根本的にはあの状況は伝えようがないんですね。だから為政者たちは、その中の一部分を自分たちの都合のいいように切り取るわけです。

     僕が一番に考えていることは、あれだけ国家が関わって、膨大な予算と研究者をつけた研究についてそれが何のためであるかということを、根本的に疑問を感じていくということです。だから、彼らがどういう枠組みでやったかということを本当に素直にもう一回見てみるべきですね。例えばこれまでに公開された資料の中では、日本側の科学者が出した報告書が英文にされて、全部GHQの科学技術課に送られています。そこのボーエン・C・ディースさんという人が、日本側が提出した報告書をまとめ、通し番号を振ってアメリカに送ります。番号はNo.1からNo.181まであります。これについては、ディースさんの本があります(ボーエン・C・ディース著、笹本征男訳『占領軍の科学技術基礎づくり〔占領下日本1945~1952〕』(河出書房新社、2003年))。その送り先は統合参謀部(JCS)という米陸海軍を統合する部署です。で、統合参謀部に送られたら当然アメリカ内部で方々に報告書が配られるはずなんですね。でもその先で唯一わかっているのは陸軍の病理学研究所に送られたという例だけです。でも実際にはそんな程度ではないはずです。日本の七三一部隊の例でも、日本側の資料が米軍の中で研究されているわけですが、僕たちが知り得る情報は、ほんのわずかです。それからアメリカ側で日本から提出された報告書がどのように利用されたのかという点については、ほとんどわかっていません。

     それともう一つ、日本に来た米占領軍では米陸軍と米海軍が合同で調査するというので合同委員会を作るんですが、それをJoint Commissionと言いますが、その報告書(『日本における原子爆弾の医学的効果』)が1957年にアメリカの有名な出版社のマックグローヒル社から出ています。その中には日本側代表として都築正男が入っていて、その下に約20人の東京帝大の医者の名前が、調査協力者として挙げられています。この米陸海軍合同委員会の調査報告書を見て、面白いことに気付くのです。合同委員会の調査者名簿が、本の巻末にあるのですが、日本側の調査協力者名は、先に触れた都築以下の人間たちだけです。しかし日本側には、学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会という巨大プロジェクトがあって、それが米軍の原爆調査への協力機関なわけです。特別委員会の9分科会の中の医学科会の科会長は都築正男です。つまり、合同委員会の名簿で日本政府代表が都築というのは、おかしいのです。米軍からしてみれば、日本政府そのものが、自分たちの原爆調査への協力組織であるという事実を公にしたくないということなのだと僕は思います。戦争の勝者、占領者としての正当性が問われるからです。

     先にも述べた、アメリカにおいて日本側が提出した報告書がどのように利用されたのかという点について、合同委員会の本で調べましたが、残念ながら、わかりませんでした。つまり、この本では典拠文献を出していないので日本側の報告書がどのように利用されているかが具体的に確認できないのです。でも、米陸海軍合同委員会の調査報告書が、あれだけ多くの日本人科学者、医学者による報告書に依拠していないはずがありません。今後は、この点も研究していくべきだと思います。

    ──最後に、笹本さんが今後研究をどういうところに展開したいかという将来の構想、それと最近若い人の中で日米間の資料を掘り返して、新しい光を当てようと仕事を始めている人もいますね。そういう方を少し紹介していただいて、これからの展望を語っていただけたらと思うのですが。

     ひとつは、低線量被曝PJの勉強会をずっとやっていきたい。その場合ヒロシマ・ナガサキの問題が根本ですから、それをどうやって、過去と現在の対話の中に入れて考えるかということになりますね。具体的に言いますと、1947年にアメリカが作ったABCC、日本側の協力研究機関は原子爆弾影響研究所、さらにそれが1974年に改組されて今の放射線影響研究所の組織になり、それらの60年近い歴史の中でこれら各機関が公表した報告書――テクニカルレポート(「業績報告書」)といいますが――それが1974年までに3000本くらい、さらにそれから30年経ち、合わせて6000本くらいあるはずなんです。それを概観して、僕なりの感触をつかみたい。それが僕が日本でできることです。壮大な試みのように見えますが、まず単純にタイトルはわかるし、現物も大体すぐ手にはいりますから、どういう研究者がいたとか、数量的に洗い出す手もあるし、内容的にも洗い出せるので、やっておきたいですね。

     若い研究者について言えば、広島市立大学平和研究所の高橋博子さんがアメリカの原爆に関する医学情報などの研究で同志社大学で博士号を取得し、ずっと勉強していまして、ABCCの問題もこれから勉強したいと言っています。アメリカに行く機会も多いようなので、アメリカのことは彼女にやって欲しいと。僕はアメリカに行く機会がほとんどないので、日本でできることをやっていきたい。高橋さんもだんだんわかってくると思うけど、まず研究の歴史がほとんどないし、やればやるほど自分たち日本人に跳ね返ってくる。でも、若い人に本気で、しゃかりきになってやって欲しい。今まで日本でほとんど行われなかった研究ですが、アメリカに行けば膨大な資料がありますからね。それをどんどん紹介してもらって、どんどん研究してほしい。

     それから、もう一つは非常に具体的な問題ですけど、被爆者の子供たちに対して行われている遺伝研究の60年後が何を意味するのか、ということを、低線量被曝の勉強会に関わるから、考えていきたいと思っています。

     歴史に興味を持っている人間としては、最終的には歴史の中でこれをどう位置づけたらいいか、皆さんにわかるように簡潔に描けるか、というのが最終的な目標です。それができれば非常に嬉しい。だからこうしてインタビュー受けながら、雑誌に書きながら僕なりに――まだまだわからないことがあるし、表現できないことたくさんあるんですよ――それを必死になって表現しようと思っています。わかりにくいところは当然あるだろうし、そういう意味で高木仁三郎さんのように、一般の人に対して語るときの彼の簡潔な表現はひとつの目標です。そのつもりで今日のインタビューを受けました。

     そして日本政府の責任を追及して、なおかつそれを貫いてアメリカ政府の責任の問題にしたい。そして最終的には、アメリカ市民に気づいて欲しい、単純な意味で。そうしたら少しは状況が変わるかもしれない。不思議なことに原爆調査の問題ではアメリカ市民がまったく出てこないんです。例えば、いまアメリカ政府が放影研に出しているお金は現在確か年間16億円でしたか。それはアメリカ合衆国の予算からすれば微々たるものでしょう。でも、内容、質から言うと、被爆者をモルモットにしてやっている研究に自分たちの払った税金を出していいのか、とアメリカ市民は問題にしていいはずです。アメリカ市民の誰一人として、そのことに気づいていないのではないかと思います。「原爆の被害は本当に酷いんです、見てください」と言ったって、それは向こうは拒否しますよ。でも、そうじゃない説得の仕方があると思っていますし、それをしていきたい。これはおそらく普遍性があるでしょう。やるべきことは多いですね…。

    ──本当に大きな課題を在野の研究者として問題提起され、緻密な資料分析をされて、笹本さんには心から敬服します。私たちもこの問題を手放さないことが大事だと思います。おっしゃるように、アメリカ市民を動かすまで続けていかねばなりませんね。そのためには、私たちが取り上げている放射線リスクの問題を入口に、なぜこういうことが成り立っているのかを解く視点を持ち続けたいと思います。私たちのような組織が、その問題について発信していかねばと強く思いました。本日は長い時間、本当にありがとうございました。
            

    *中川保雄「広島・長崎の原爆放射線影響研究ー急性死・急性障害の過小評価ー」 『科学史研究』第�期 第25巻(No.157)、86年春。

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