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    原発問題 -The Truth is Out There-

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    東電福島原発事故の真実 放射能汚染の真実 食物汚染の真実 正しい情報を求めて

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    911の実行犯、アメリカを、世界を支配するCFRとは 

    悪の枢軸はCFR : 外交問題評議会(Council on Foreign Relations)だった
    http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060808 より



    メンバーを先に紹介する。

    富と権力を手にしたアメリカ人の集まりであるニューヨークの外交問題評議会(CFR)は、新世界秩序の立案をする目的で第一次世界大戦直後の1921年、J・P・モルガンのパートナー、ラモントらにより設立された。CFRのメンバー、なかでもロックフェラー系の中枢メンバーは次々に壮大な世界秩序のビジョンを生みだしてきた。また、外交問題専門誌『フォーリン・アフェアーズ』(年五回刊)を発行し、今日、直面する重要問題に関し国民のコンセンサスを求めている。CFRのパワーブローカーたちは、次いで、国民にとって何が最上の利益であるかを地域のエリートに「教育」すべく影響力を行使するのである。ほとんどマスコミに登場しないため、一般には知られていないが、CFRのメンバーはアメリカの政治と外交に重要な影響を及ぼしている。Imperial Brain Trust(by Shoup and Minter)によれば、1940年から73年までアメリカの対アジア政策決定者の圧倒的多数がCFRのメンバーだった。一部を挙げると、デイビット・ロックフェラー、アレン・ダレス、ジョン・F・ダレス、ハリー・F・カーン、ヘンリー・キッシンジャー、という錚々たる顔ぶれだった。
    ●本書(軍隊なき占領―戦後日本を操った謎の男 (講談社プラスアルファ文庫))の登場人物
    カーン、ダレス兄弟の他に、アベレル・ハリマン、ロバート・ラベット、ジョン・J・マクロイ、ユージン・ドゥーマン、ジョージ・ケナンなど。
    ●元大統領
    ビル・クリントン、ジョージ・ハーバート・ブッシュ(元CFR理事)、ジミー・カーター、ジェラルド・フォード、リチャード・ニクソン、ドワイト・アイゼンハワー、ハーバート・フーバー
    ●ブッシュ(父)政権閣僚に占める主な会員
    リチャード・B・チェイニー副大統領、コリン・パウエル国務長官、ドナルド・ラムズフェルド国防長官、ジョージ・J・テネットCIA長官、コンドリーザ・ライス国家安全保障問題担当補佐官、イレーン・チャオ労働長官、クリスティン・ウイットマン環境庁長官など。
    ●クリントン政権閣僚に占めていた主な会員
    マドレーン・オールブライト国務長官、ローレンス・サマーズ財務長官、ピーター・ターノフ国務次官、アンソニー・レイク国家安全保障問題担当大統領補佐官、ウォレン・クリストファー国務長官、レス・アスピン国防長官、ウイリアム・コーヘン国防長官、ウィンストン・ロード東アジア・太平洋担当国務次官補、ローラ・タイソン国家経済委員会議長、ジェフリー・ガーデン商務次官、ブルース・バビット内務長官
    ●1949年以降の国務長官全員。歴代のCIA長官、国連大使、通商代表の圧倒的多数。
    ●歴代の駐日大使
    ダグラス・マッカーサー二世(マッカーサー元帥の甥)、ロバート・S・イソガソル、ジェームズ・D・ホッジソン(元ロッキード社幹部)、マイク・マンスフィールド、マイケル・アマコスト(ミスター外圧、ブルッキングス研究所)ウォルター・モンデール(ゴールドマン・サックス社シニアアドバイザー)、トーマス・フォーリー(元下院議長)、ハワード・H・ベイカー
    ●上記以外の会員の一部
    アラン・グリーンスパン(連邦準備制度理事会長)
    ジョージ・R・パッカード(米日財団理事長)
    デニス・ウェザーストーン(J・P・モルガン会長兼CEO)
    ジョン・ピーター・バークランド(ディロン・リード社会長兼CEO)
    ジョージ・ソロス(ヘッジファンドの帝王と呼ばれた謎の投機家、慈善事業家)
    アルジャー・ヒス(ソ連のスパイと判明した元カーネギー国際平和財団総裁、ルーズベルトの顧問)
    サミュエル・ハンチントン(『文明の衝突』の著者)
    フランシス・フクヤマ(ランド研究所のシニア・リサーチャー、『歴史の終わり』の著者)
    シーモア・トッピング(ピューリッツアー賞管理責任者、コロンビア大学院教授)
    エドワード・サイード(『オリエンタリズム』で知られるコロンビア大学教授)
    キャロル・グラック(明治イデオロギーの研究『日本近代の神話』を著したコロンビア大学教授)
    スティーブン・グローバード(米芸術科学アカデミーの機関誌『ディーダラス』編集長)
    カール・セイガン(天文学者)
    W・W・ロストウ(『経済成長の諸段階』で有名な経済学者、ケネディ大統領の顧問、元OSS)
    アーサー・シュレンジャー二世(政治学者、ケネディ大統領の顧問、元OSS)
    ジェームズ・W・モーレー(日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』を英訳した歴史家。元東アジア研究所教授)
    ロバート・クリストファー(元『ニューズウィーク』外信部長、元ピューリッツアー賞管理責任者、『ジャパニーズ・マインド』の著者)
    エズラ・ヴォーゲル(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者、ハーバード大学教授)
    ジェームズ・ファローズ(『USニューズ&ワールドリポート』編集長、カーター大統領の首席スピーチライター、『日本封じ込め』の著者)
    エレン・フロスト(米通商代表部参事官、『日米新時代をどう切り開くか』の著者)
    ヒュー・ボートン(日米講和条約の作成に関わった歴史学者、『戦後日本の設計者』の著者)
    ルシアン・パイ(『エイジアン・パワー』の著者、元米政治学会会長)
    マウリス・ジャンセン(日本政府より「文化功労賞」に選ばれた日本近代史研究の泰斗)
    ジェームズ・アベグレン(アジア企業研究の第一人者、著書に『KAISYA-The Japanese Corporation』、上智大学比較文化学部教授)
    ロバート・A・スカラピーノ(アジア問題の権威とされる政治学者、カリフォニア大学の名誉教授)
    フランク・B・ギブニー(元国務省・太平洋経済協力委、TBSブリタニカ副会長、ポモナ大学太平洋研究所長)
    エドワード・J・リンカーン(モンデール駐日大使補佐官、ブルッキングス研究所シニア・フェロー)
    モートン・ハルペリン(沖縄返還交渉をお膳立てした元国務次官補代理)
    ハーバート・パッシン(GHQのCIE部長として日本に世論調査の手法を紹介した学者)
    ダニエル・ヤンケロビッチ(日本のマーケッティング業界にも影響を及ぼした社会・世論分析家)
    ジョージ・ギャラップ(世論調査機関ギャラップ社の創設者)
    ダニエル・エルズバーグ(国防総省のベトナム秘密文書を『ニューヨーク・タイムズ』に暴露。元ランド研究所職員)
    アン・クリッテンデン(ロッキード事件を早くから把握していたと暴露した元『ニューヨーク・タイムズ』記者)
    レズリー・ゲルブ(元『ニューヨーク・タイムズ』コラムニスト、93年以降CFR総裁)
    A・M・ローゼンソール(『ニューヨーク・タイムズ』コラムニスト)
    バーバラ・ウォルターズ(ABCテレビのキャスター)
    ダン・ラザー(CBSイブニングニュースのアンカー)
    トム・ブロコー(NBCナイトリー・ニュースのアンカー)
    キャサリン・グラハム(『ワシントン・ポスト』社主)
    セリッグ・ハリソン(カーネギー財団の東アジア戦略学者、元『ニューパブリック』『ワシントン・ポスト』記者)
    マイケル・ノヴァク(『ワシントン・スター』『フォーブス』などのコラムニスト、『資本主義の精神』の著者)
    ウィリアム・F・バックレー・ジュニア(アメリカ保守主義の長老、『ナショナル・レビュー』編集発行人)
    ノーマン・ポドーレツ(『コメンタリー』編集発行人、新保守主義の政治評論家)
    アーヴィン・クリストル(『パブリック・インテレスト』編集長、著書に『新保守主義』)
    ネイザン・グレイザー(新保守主義の言論誌『ナショナル・インテレスト』共同編集長、ハーバード大学)
    ベン・ワッテンバーグ(討論番組『シンクタンク』の司会者として有名な学者、元ジョンソン大統領のスタッフ)
    ノーマン・オーンスタイン(元『USAツゥディ』のコラムニスト、アメリカン・エンタープライズ研究所の研究者)
    エドワード・ルートワック(湾岸戦争の戦略策定にあたった学者、ジョージタウン大学CSISシニア・フェロー)
    ポール・A・ボルガー(元FRB議長)
    ズビグネフ・ブレジンスキー(CSIS顧問、元大統領補佐官)
    サイラス・R・バンス(元国務長官、ジャパン・ソサエティ会長)
    キャロル・L・ウィルソン(MIT教授、AEC原子力委員会初代総括責任者)
    ジョセフ・S・ナイ二世(元NIC国家情報会議議長、元国防次官補、国家安全保障問題担当)
    ポーラ・J・ドブリアンスキー(地球規模問題担当国務次官)
    リチャード・N・ハース(国務省政策企画部長)
    ポール・ウォルフォウイッツ(元国防副長官、世界銀行総裁)
    ほか、会員数は約三千三百余名。


    911を起こしたのも外交問題評議会(CFR)である。

    その正体 影の世界政府とは

    このアメリカの外交政策専門グループ、外交問題評議会(CFR)は、1921年の創設以来、アメリカの政策策定における最有力勢力として君臨してきた。評議会メンバーは、第一次世界大戦後にアメリカが策定した主要な外交政策のほとんどすべてに関与した。したがって、戦後日本の「逆コース」を工作したアメリカの金権家たちが、1930年代末期に対日本石油禁輸措置(ABCD包囲網)をかくも巧妙に計画した、同じパワーエリートの首領であったとしても意外なことではない(だから日本はパールハーバー攻撃を余儀なくされたのだ、という日本人は少なくない)。

    彼らはまた、広島と長崎への原爆投下を承認し、それと並行して太平洋戦争終結の和平目標と条件を練りあげた政策立案者でもあった。これらの首領は兼務する別の職務権限によって、1951年に調印された日本初のアメリカとの平和条約の立案にあたっても影響力を行使できる立場にあった。

     彼らはいったい何者なのか。彼らに共通していることとはなにか。答えとして一つ挙げられるのは、彼らが巨大多国籍企業、とりわけロックフェラー一族のスタンダード石油系列企業となんらかの関わりがあること、そして、その多くはCFRの後援者だったということである。ロックフェラーの支配下にあったこのシンクタンクは、第二次世界大戦以前から、また、とくに戦後になってから、多数の外交政策専門家を閣僚に送りこんできた。「新世界秩序」が本格的に話題にのぼるときは、国際的再編成に向けての具体案はかならずCFRから生まれるのである。
    <中略>
     戦後、アメリカの多国籍企業の対日戦略策定にあたっては、ロックフェラー・グループが原動力となってきたことは疑問の余地がない。ロックフェラー系の主要企業が外国から得ている収益は総収益に対して異例の高比率を占める。他のアメリカの寡占と同様、彼らは関心のある国-主として天然資源を有する国、あるいは、市場を提供できる国-に対する政府の政策を動かすことについては強い動機をもっている。ロックフェラー・グループの場合は、国の外交政策を生みだし、その採決を確実にするためのもっとも有効な私的機関として、CFRは機能してきた。
     ロックフェラー一族の内部工作に詳しかったファーディナンド・ランドバーグは書いている。

    「CFRメンバーの大部分は、財界、金融界のリーダーと企業の顧問弁護士だが、随所に学者を配しており、国務省と国防総省の主たる外郭機関である。また、それらの省庁に、トップクラスの政策策定者を送り、多大の忠告を与えている。(略)ロックフェラー一族とCFRメンバーの多くについていえることだが、彼らの私的な利権は、組織として制度化されたアメリカの国家としての決定的に重要な利権と密接に関わっている。一方を叩けば、もう一方も叩かれる。一方が血を流せば、他方は大量に出血する。」


    防共のための天皇制維持

     CFRは、財界・金融界のリーダー、企業の顧問弁護士、政府職員、学者、教育者、財団理事、出版業者、政治家から構成されているが、第一次世界大戦末期の設立以来、海外に利権を有する大企業の惜しみない援助を思いのままに受けてきた。最初はモーガン一族の影響力が圧倒的であったが、1930年代末にはロックフェラー・グループが優勢を占めるようになり、以来、今日にいたるまで、一族の者とその家臣たちがCFRのもっとも気前のよい後援者および会員となってきた。

     建国のその昔から、野心的なアメリカ人は、政府を動かすには自ら政府になってしまうのが最善の策だという自明の理を実践してきた。CFRは、いわば、金持ちとその幹部が、政治的、また、知的に有力な仲間と交際して利をはかる排他的クラブであり、この本質的性格は設立以来ずっと変わっていない。必然的に、CFRは、政府スタッフ、とりわけ、外交、防衛、経済分野のポストに登用されるための踏み台となった。とはいえ、CFRの会員たちは伝統的に党派政治に関与することを避けており(少なくとも嘆いており)、その姿勢がCFRを持続させる源となっていることも事実である。

     日本に関することでは、1930年代からアメリカ政府が採択したあらゆる国際政策は、CFRの多大な影響を受けており、多くの場合、閣僚またはそれに次ぐ地位を「副業」にしている大企業の代表者たちが動かしていた。その役割と重要性については、CFRは、かつて関連機関であったイギリスの名門、王立国際問題研究所に酷似していた。後者は「チャタムハウス」として知られ、CFRとのつながりはいまなお姉妹機関として続いている。

     CFRは、その後継者J.P.モルガンと同じく、当初はヨーロッパ志向が強かったが、1930年代、日本と中国の工業化と、石油への渇望が増すのに歩調を合わせて、急速に東アジアへの関心を深めた。アメリカの対アジア外交政策は、CFRを不可欠のシンクタンクとみなす金融資本家や資源開発業者、輸出業者の必要条件によって決定されることが多かった。1930年代末期に最大の関心を集めたのは、日本の中国侵攻だったが、これについてワシントンやウォール街の見方はどちらともとれる曖昧なものだった。
    <中略>
     当時、日本に最大の投資をしていた外国企業は、モルガン系列のジェネラル・エレクトリック社だった。それ以外の、より個人的な人間関係も見逃すことはできない。たとえば、陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンは自分の法律事務所を通じてモルガンと強力なつながりがあったし、大使のジョセフ・グルーは大親分J.P.モルガンの親戚でもあり、親友でもあった。ロックフェラー、メロン、フォード、デュポンの各一族も日本に急速に関心を持ち始めており、ロックフェラー系のスタンダード石油は中国の石油市場で支配的地位を保っていた。
    <中略>
     太平洋戦争が終わろうとしていた1945年、グルーは、次官として国務省でナンバー2の地位にあり、エドワード・スタチニアス長官(CFR)が国連の組織作りで多忙なときなど、しばしば長官の任務を果たした。したがって敗戦国日本の降伏政策の文官目標を練り上げるという仕事は、グルーと陸軍次官補(生え抜きのロックフェラー・マンである)ジョン・J・マクロイにかかってきた。処理にもっとも苦慮したのは天皇制の存続問題だった。モルガン帝国とロックフェラー帝国を代表するこの二人(グルーとマクロイ)が日本の皇室に親近感を覚えたとしても不思議ではない。

     ジョセフ・グルーは、日本を共産主義に走らせないためには、天皇制を維持するのが唯一の方法であるとみていた。そこで、SCAP(連合国軍最高司令部)がかかえていた最も厄介な問題は、1947年制定の憲法で日本の君主を単なる国の「象徴」と宣言することで繕われた。


    権力中枢にCFR

     広範に伸ばされたCFRの触手は、戦時内閣にも深く入り込んでいた。たとえば、陸軍長官スティムソンはCFRのメンバーというだけでなく、評議会の創立メンバーの一人(初代名誉総裁)のイライヒュー・ルートのビジネス・パートナーでもあった。フィリピンの割譲を勝ち取った米西戦争を、1899年、陸軍長官として指揮し、アメリカ帝国の拡大に尽力したのがルートだった。

     日本によるインドシナ侵攻の時点で、スティムソンはすでに78歳だったが、元フィリピン総督として太平洋問題に詳しいという強みがあった。そのうえ、神の恵みであるかのように、当時、CFRの中心メンバーであった次官補ジョン・J・マクロイを部下に得ていた。偶然とは思われないが、マクロイは自分の法律事務所を通じてロックフェラーに仕える立場にあった。マクロイは、事実上、スタンダード石油の「外務大臣」であり、アメリカ石油産業の調停役であったが、モルガン一族のパートナーの娘との婚姻により立場はさらに多面的なものになっていた。アメリカでマクロイとその顧客ほど、早くから、しかも、断固として日本叩きを行なった者はおそらくあるまい。

     スティムソンを補佐したのは、やはり彼の子分格のロバート・A・ラベットだった。ラベットは、ロックフェラー資本と非公式に提携していた大手投資銀行ブラウン・ブラザース・ハリマン社のパートナーであり、父親は鉄道王エドワード・H・ハリマンの右腕だった人である。ラベットと鉄道王の息子アベレル・ハリマンは幼なじみで、それぞれ銀行と政界にあって協力しあっていた。この二人はスティムソンに「すばらしい双子」と呼ばれていた。意外なことではないが、スティムソン、マクロイ、ラベット、ハリマンの四人はすべてCFRのメンバーだった。

     陸軍省でCFR=ロックフェラー色が強いのはアメリカ官界でめずらしいことではなかった。当時、政府の外交政策策定者の過半数はCFRメンバーで占められており、政・官界と民間企業の間を行き来する、いわゆる“回転ドア”種族のうちの三分の二を上回った。1947年から73年までの大統領を含む閣僚のなかで、東南アジアに関する主要政策策定者に占めるCFRメンバーの割合は、旧メンバーと現役メンバーを合わせると、なんと72%にも達していた。

     これは、いうまでもなく、デイビッド・ロックフェラーの日米欧(三極)委員会が設立される以前の話である。外交と防衛分野の権力構造に侵入し、ジミー・カーター政権を実質的に乗っ取った同委員会には、CFRメンバーが大々的に侵入していた。アメリカ政府に占めるCFR色は、70年代に入ると、いちだんと濃厚になった。カーターの外交問題顧問にはロックフェラー・マン(そしてCFRの一員)であるズビグネフ・ブレジンスキーが選ばれた。一方、リチャード・ニクソンの腹心には、ロックフェラー一族のお抱えブレーンで、CFRが目をかけていたヘンリー・キッシンジャーがいた。カーター自身は、国際的に人脈を広げ、外交の表舞台に出ることができるようにとのことで、エリート・クラブ、日米欧委員会の創立委員に据えられた。


    戦後日本を決定づけた中国革命

     話は占領時代に戻るが、ウォール街とCFRの代表は東京にも間違いなくいた。ディロン・リード社の副社長で、1947年から49年までの重要な時期に陸軍次官の職にあったウィリアム・H・ドレイパーが、エスタブリッシュメントの利権を守るために監視にあたっていた。同僚で友人でもある国務省のジョージ・F・ケナンにけしかけられ、すでにACJ工作の被害を被って腰の重かったマッカーサー元帥を説得し、占領政策の重点を民主化から経済復興と軍の復活に転換するという「逆コース」の主要部分を受け入れさせたのが、このドレイパーだった。

     ドレイパーは、また、ジョン・D・ロックフェラー三世の後援で行なわれた国際人口問題に関する働きによっても記憶されている。彼は、岸信介ばかりか、かの有名な慈善家で元戦犯の笹川良一とも似たような活動をしていた。笹川は奇怪にも「ドレイパー世界人口基金」の名誉創設者を自称していた。

     CFRが冷戦開始にも一役買ったことは、多くの歴史家が認めるところである。国務省政策企画本部長で、CFRメンバーのケナンは、共産勢力に対する、いわゆる封じ込め政策を宣言し、「冷戦のピストルを発射した」として知られた。ケナンがCFR発行の外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』(1947年7月7日号)に寄稿した論文は、(Xという匿名で出したため)「X論文」と呼ばれ、後年にいたるまで国際関係問題に広く影響を及ぼした。

     かくも多くの重要な声明や決定がCFRメンバーによってなされるとは、いったいどういうわけか。一人のジャーナリストが、この質問をCFR会長ジョン・J・マクロイにぶつけた。六人の大統領に外交政策について助言をしてきたマクロイはこう答えた。「人材が必要になったら、カウンシル(CFR)の会員名簿をめくり、ニューヨークに電話を入れたものだ」

     マクロイがいったニューヨークとはウォール街のことにちがいない。

     マクロイほど、外交と大企業のいかがわしい同盟をよく知る者はいなかった。たとえば、鉱業家の跡取り、ルイス・ダグラスである。ロックフェラー財団の理事で、CFRで活躍していたが、太平洋戦争勃発当時、まったく経験がないにもかかわらず、軍事船舶副行政官に任命された。これが、いとこのジャック(ジョンの愛称)・マクロイの引きでなかったというのなら、義父(モルガンのパートナー)の後押しがあったとしか考えられない。

     アメリカの戦後の対外政策は、戦前、戦中と変わらず、北東アジアと東南アジアをほとんど区別していなかった。ロックフェラー一族とCFRの仲間たちは依然としてアメリカ経済の重大関心事を代弁していた。国際石油資源への接近とその支配である。日本が確実に敗れたからには、アジアにおいて、とくに石油とその流通に関して「新国際秩序」を確立しなければならなかった。その体制を考え出すという仕事に適任者は、CFRよりほかにいただろうか。

     韓国からオランダ領東インド、マレーシア、インドシナ、ビルマまで及ぶ、日本の「共栄圏」から解放された東アジアと東南アジア諸国は、1940年代末期に植民地宗主国からの独立に向けて性急な動きをみせていた。しかし、石油商人、銀行家、外交官は、この地域が石油資源に恵まれた地域があることを知っていた。多国籍企業の投資家にとっての最大の気がかりは、中国における共産主義の勝利だった。中国こそはロックフェラーの投資政策の焦点であり、将来の石油製品の市場として無限の可能性を秘めているように思われた。いまや日本だけがこの地域で唯一の、可能性のある代替市場だった。

    国際文化会館の実像

     CFRの活動家J・F・ダレスは、日本との平和条約への道を切り開きながら、日本を冷戦に引き込むという大胆な行動を起こした。1950年の極東への使節訪問が成功したため、ダレスは51年にふたたび、差し迫った平和条約の舞台づくりという任務を担ってハリー・S・トルーマン大統領の特使として派遣された。同行したのは国務省と国防総省の役人だったが、なかに一人だけ役人ではない者がいた。ジョン・D・ロックフェラー三世である。講和条約は、1951年9月、サンフランシスコで調印されたが、このときにも、どういうわけかダレスの傍らにはその姿があった。日米間の外交には多くの潤滑油が必要だったようである。

     『ニューズウィーク』と組んだ執拗なACJ一派と、それに便乗した日本の政・財・外交界の右翼派閥の力を借りて、ジョン・D・ロックフェラー三世は、天皇を含む日本の多くの重要人物とすでに面識があったと推測される。彼は、この“日出づる国”に、ある日、突然、姿を現わしたわけではない。ジョン・D・ロックフェラー三世をはじめロックフェラー家は、長年、ニューヨークのジャパン・ソサエティ(日本協会)を後援していた。ソサエティは、ロックフェラーの東京出先機関である国際文化会館の本部であり、監督機関である。

    「文化交流」とは名ばかり

     占領が終わり、日本人の海外渡航許可が容易に得られるようになると、米日間の文化交流プログラムという概念が通用するようになった。しかし、冷戦の真っ只中でもあり、「交換グループ」の中には「文化交流」という名目で秘密の活動をしているものがあまりにも多かった。そうした策略の一つが、道徳再武装運動(MRA)だった。主に右寄りのアメリカの実業家が後援する反共の擬似宗教であるMRAは、過去および将来の日本の指導者たちを(ときには国防総省やCIAから特別待遇を受けて)アメリカや西欧への官費旅行に招待し、外国の指導者に引き合わせ、労使調和と反共について説教を吹き込んでいた。日本のMRAは、権力回復に野心を燃やしていた戦争中の異端者などに公開贖罪の場を提供した。

     MRAの大物の一人が、グルーの古くからのゴルフ仲間でもあった岸信介だった。60年代と70年代に、岸は他の悔悟者とともに、派手に宣伝されたMRAの国際会議で空涙を流した。日本では政治家だけでなく、実業家もMRAを支持した。とくに三井本家の弟の三井高維がそうだった。品がよく英語に堪能な三井は、MRAの創設者フランク・ブックマンを支持する欧米の裕福な人々のあいだに多くの友人がいた。占領期間中、MRAの会員には、一般の人たちよりずっと前から海外旅行が許可されていた。

     この幸運な旅行者の一人に、内務省の特高から海軍将校になった日和見の右翼政治家、中曽根康弘がいた。MRAに接近することの政治的利点をすばやく察知した中曽根は、スイスで開かれるMRA世界大会に出席するため、1950年6月、機上の人となった。一行はヨーロッパ視察後、アメリカへ向かった。彼は自分の目標については率直だった。アメリカへ向けた飛行機が離陸するのを待つあいだ、中曽根は三井の子孫に「十年したら私は総理大臣になる」と野心を打ち明けたという。実際には、それは三十二年後まで実現しなかったが、その間、いくつかの内閣ポストに就いた。その後、戦後もっとも破壊的なスキャンダルといわれるロッキード事件に連座しながら、また、数年後のさらに一回り大掛かりなリクルート事件でもそうだったが、奇跡的に無傷のままでいた。
    <中略>
     親米派の政治家に庇護者がいたにせよ、いなかったにせよ、1970年代には、二国関係における力ずくの戦術や不正工作は、多種多様な文化交流プログラムを隠れ蓑にした、より巧妙な形の占領に変わっていった。この複雑に入り組んだネットワークの中枢を担ったのが、山本正という疲れを知らぬ人物が率いる日本国際交流センター(JCIE)であり、これは今日も変わっていない。

    JCIEが日本におけるロックフェラーの利権を代表していること、MRAの本部であったこと、さらに日米欧(三極)委員会の事務局であり、CFRのプログラムさえ行なってきたという事実は、たんなる偶然とはいいがたい。

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