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    原発問題 -The Truth is Out There-

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    岩上安身のIWJ特報 第74号「自民党の憲法改正草案についての鼎談・第2弾~澤藤統一郎弁護士、梓澤和幸弁護士インタビュー(後編)」 

    第74号
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
                 岩上安身のIWJ特報
            自民党の憲法改正草案についての鼎談・第2弾
         ~澤藤統一郎弁護士、梓澤和幸弁護士インタビュー(後編)
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    (IWJより転載許可済)

    ===================================
    ◆ 国家の都合で、『基本的人権』が認められない
    ===================================

    【現行憲法】

    第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

    第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


    【自民党憲法改正案】

    第11条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

    第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

    ──────────────────────────────────

    岩上「さて、次が『第3章 国民の権利及び義務』という、大変重要なところで、基本的人権の話です。これはすでにお話しいただいているので、いくつかピックアップします。

     現行の憲法では、『第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在および将来の国民へ与へられる』となっています。自民党案は、これを『全ての基本的人権を享有する』と変えてある。『妨げられない』というわけではない。『享有を妨げられない』が『享有する』になっている。

     そして『この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である』と変えられている。『永久の権利である』とまで書いてあるのは変わらないのですけども、『現在及び将来の国民に与へられる』というのがなくなっています。これによって、どのぐらいの影響が出るのか、私にはちょっとわかりません。

     次に、現行憲法第12条です。『国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福利のためにこれを利用する責任を負ふ』とある。ここに、自民党案では『自由及び権利には責任及び義務が伴うということを自覚し』という一文が入るわけです。そしてその次、『公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ』が『公益及び公の秩序に反してはならない』と変わっている。

     以上が、11条、12条です。これは前回のインタビューでも『公共の秩序を政府が決めてしまうと、基本的人権がその下に位置してしまうので、問題が大きい』というお話をうかがいました。ちょっと細かいことではありますが、『将来の国民に与へられる』という文がなくなっているのは、どういう意味を持つのでしょうか」

    澤藤「自信をもって言えることではないのですけれども、もちろん、影響がないとは言えない。それは、改正の限界の問題です。あとで出てきますけれども、憲法の改正には当然、限界がある。いくつかの原則がありますけども、大事な原則は変えてはならない。これは大原則です。

     そういう意味で、基本的人権を『将来の国民に与へられる』と言えば、これは、変えてはならないということを非常に明瞭に言っている。自民党案の『永久の権利である』ということと、『現在及び将来の国民に与へられる』というところまで言い切ることとのニュアンスの差です。自民党案の11条は『改正の限界は、基本的人権に及んではならない、ということを明示した』と読むことができます。

     これは、現行の97条もそうなのです。最高法規という章の最初に、97条があります。ここにも、これらの権利、つまり人権は『過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された』と書かれている。11条と97条は、呼応するものとして、セットで読まれます。現行の97条、『第10章 最高法規』です」

    岩上「では、改めて『第10章 最高法規』、現行の97条を読みます。

    『この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである』

     確かにここに、『将来の国民に対し』ということ、そして、この憲法というのは、ただ自国の歴史だけを反映しているのではなく、人類の歴史の果てにあるものなのだということ。ここに、その普遍性も書き込まれているということですね」

    澤藤「そうですね。しかも、最高法規という章の最初に出ているというのは、非常に意味があるわけです。これが、自民党案では全部削除になっている。『こんなものは要らない』と言っている。これはやはり、憲法改正の限界と大きな関係を持つものだと考えます」

    岩上「自民党案の基本的人権のところに『自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない』とあります。これは『公の秩序は、基本的人権を認めるよ』と言っているのですね。言っているのだけど、基本的人権が自然権であって、そもそも政府に与えられるものではないということが、すっぽ抜けていると思うのです。

     これは、憲法だけではなくて、近代思想に深くかかわる話であって、ジョン・ロック(※11)、あるいはルソー(※12)といった思想家たちが現れ、その思想家たちが、自然権としての人権を説いたわけです。天賦人権説は、そういうことだと思いますけれども、『天賦』というと、どこか神様がいるかのようにも思えますが、これは自然権であるということです。

     生まれながらの権利であって、だれか公のその時の権力者とか、共同体とか、政府とか、そんなものから与えられるものではない。『人間には、生きていく権利がある。そして、それは人間それぞれが持っている絶対的な権利なのだ』ということを認めた上で、あとはその人間が寄り集まって、生きていく集団を形成するときに社会契約を行なう。国家とのあいだに契約を行なう。そういうものとして、こうした法が作られてきたと思うのです。

     それが、公の秩序が先行したり、歴史と伝統を持った国家が先行したり、そして、そこに反しない限り認めてやるよ、という構成になってしまっている」

    (※11)ジョン・ロック(1632年‐1704年):イギリスの哲学者。ロックの思想は名誉革命を理論的に正当化するものとなり、その中で示された社会契約や抵抗権についての考えはアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。(http://ja.wikipedia.org/

    (※12)ジャン=ジャック・ルソー(1712年‐1778年):スイス出身の哲学者、政治哲学者、教育哲学者、言語哲学者、作家、作曲家であり、啓蒙思想の時代にあった18世紀フランスで活躍した。同時代の多くのフランスの知識人とともに百科全書派の一人に数えられる。(http://ja.wikipedia.org/

    梓澤「前回のインタビューでも言ったのですが、『民主主義といえば多数決』ということがすぐに浮かびます。たとえば、学級委員を選ぶとき、多数決じゃないかと。それで、多数が決めたら、憲法だって変えていいじゃないかと。あとで言う『二分の一説』も出てくるのだけど、それだけじゃなくて、さっき澤藤弁護士が言われたように、憲法の中には『憲法を変えるときに、ここから先に踏み込んでは駄目だよ』という思想が埋め込んであるわけです。

     それは何かというと、仮にある時期、大多数の選挙で議席を占めたとする。あるいは、国民投票で多数になったとする。それでも、人権というものを否定することは、人類の、それこそ1000年、2000年の知恵の結果、辿りついたものだから、短慮に基づいて、そこを傷つけてはいけない。これが、憲法に埋め込まれた思想なわけです。

     しかしながら、もちろんお互いに社会という集団で生活していくのだから、他人の人権をお互いに制約するような人権の行使があった場合には、それは制約されてもしようがない。それが『公共の福祉』という言葉なのです」

    岩上「現行憲法の12条に書かれている『常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ』というところ。そして、13条の幸福追求権。『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』」

    梓澤「この『公共の福祉』という言葉が、自民党の草案にはないのです。『公益及び公の秩序』という言葉に変わってしまっている。

     今申し上げたように、人権という最高の価値があり、また個人は国家よりも貴いという価値がある。その価値を制限するには、もうひとつ他の人──澤藤弁護士の人権もあれば、私の人権もある──の人権を制約するようなとき、そういうときには、それは『公共の福祉』という考え方で、お互いの『調整』が必要である。だから、『調整』の原理なのです。

     宮沢俊義先生(※13)という人が『公共の福祉』というのは、人権同士の調整をする調整の原理であるという言葉で言い換えたのですが、そういう言葉がすっぽりと、自民党草案から落ちて、今度は『公益の秩序』に変わってしまった」

    (※13)宮沢俊義(1899年‐1976年):日本の法学者。大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を法的に解釈した八月革命説を唱えたこと、また法哲学者である尾高朝雄との尾高・宮沢論争(国体論争)などが有名。その他公共の福祉の解釈における一元的内在説の主張など、後の憲法学界に多大な影響を残した。(http://ja.wikipedia.org/

    澤藤「もともと『公共の福祉』という言葉は、私ども弁護士にとっては敵対する言葉として、つまり、人権に対する対抗概念として、人権制約をエクスキューズする言葉として今まで使われてきたので、非常に反感を持っていたのです。しかし、だんだんと裁判所も、これは人権相互間が矛盾し、あるいは、人権相互間がどうしても両立できないときの調整原理だというふうに、読むようになってきている」

    岩上「では、それは初期、そういう感じではなかったということですか?」

    澤藤「そうです。雲の上に、どこかに人権とは別の『公共の福祉』というものがあって、『公共の福祉』という言葉をひと振りすれば、すべての人権が抑制できるというような、こう読めるような判例はたくさんあったのです。

     しかし、だんだん、そうではなくなってきた。それは、学者や実務家の努力なのです。ここまで、『公共の福祉』を追い込んできた。そしたら今度は『公益及び公の秩序』、公益公序という言葉に置き換えてしまえと」

    岩上「しかも、これははっきりしています。『常に公益及び公の秩序に反してはならない』、これはもう、はっきり上位ですよね」

    澤藤「そうですね。これが、人権に敵対をしていることは明らかです。その前の『自由及び権利には責任及び義務が伴う』というところ。

     権利というのは、法技術ですから、権利と義務というのは、対になっているわけです。権利があれば義務になる。たとえば、基本的人権。これは権利だということになれば、権利の主体は、国民一人ひとりの個人であって、その権利に対応する義務の主体、それは国家、あるいは、国家の機関である地方自治体であるわけです。法体系は権利という概念を使って組み立てられているので、権利というのは当たり前のことなのです。なにも本来は『義務を伴う』なんて言う必要もない。

     それは結局、『基本的人権といっているけれども、十全には認めないぞ』という宣言でしかないのです。現行憲法でも『濫用してはならない』という歯止めがありますが、これは当たり前のことです。精神の自由がある。あるいは言論の自由がある。

     しかし、どんな言論をしても自由だという主張はあり得ない。どんな行動の自由があるといっても、殺人の自由はあり得ない。こうした当たり前のことを『責任及び義務が伴う』としているのは、『基本的人権として、お前たちが考えているものだって、十分には認めないよ』という宣言以外にはない。そうとしか読めません」

    岩上「調整のための機能ということは、ホッブス(※14)の言うような、自由な状態に置かれると、人間というのは、万人の万人に対する闘争になる。なので、それを調整するものとしてリヴァイアサンが必要だと。国家が必要なのだと。こういう考え方と響きあうものなのでしょうか。リヴァイアサン的な国家が、それを調整するという意味ではなくて、個々が調整し合えるという、それが『公共の福祉』ということなのですか?」

    (※14)トマス・ホッブズ(1588年‐1679年):イングランドの哲学者で、人口的国家論の提唱と社会契約説により近代政治哲学を基礎づけた人物。政治哲学書である『リヴァイアサン』は、ホッブズの代表的な著作であり、17世紀ヨーロッパにおける国家理論の白眉といわれる。(http://ja.wikipedia.org/

    澤藤「いや、そうではなくて、やはり、あるAという人の人権とBという人の人権がある。それは国家に対する関係では、両方とも十全な権利なわけです。しかし、民事的な問題が発生するなど、両方が並び立たない場合が色々あるわけです。そのときには、この権利を調整しなければならない。『私の権利は、こういう権利だから、遠慮なくやらせていただきます。いや、それは実は他の人の権利を侵害することに繋がりかねない』などというときには調整をして、どちらかをどちらかに遠慮してもらわなければならないことがある。

     そのときに、ほかの人の価値と、それから、自分が主張している価値は、やっぱり平等な価値しか持ちませんから、調整をして、円満な、両方が並立するように、譲歩を余儀なくされる。そのとき『公共の福祉』という言葉を使って、円満な権利が制約されるということを認めざるを得ない。そういった場合はあるわけです。

     ところが、そうではなくて、国家というものに対して、人権はそもそも遠慮しなければならない。義務とか責任があるのだという考え方は、今まではまったくないわけです。人権対人権であれば、それは対等な価値を調整する必要がある。

     しかし例えば、秩序、あるいは国家の利益というものが、アプリオリに(※15)人権よりも価値が高い。これはあり得ない。ところが、こういう書き方だと、そういった考え、つまり『人権というのは、常に責任、義務が伴うのだから、あなたの権利は認めないよ。国家にこういう都合があるから、駄目だよ』という考えを認め、国家を批判するような自由を認めないと言われかねないのです」

    (※15)アプリオリ:「先天的」の意。哲学、特にカントの認識論では、認識・概念などが後天的な経験に依存せず、それに論理的に先立つものとして与えられていること。(三省堂『大辞林』)

    梓澤「表現の自由は、非常にわかりやすい例だと思います。表現の自由はある。しかし、人の名誉を傷つけ、あるいは絶対に知られたくない秘事、秘密を暴露するプライバシー侵害、これらは許されないというときに、表現の自由という権利と、一方で、名誉やプライバシーという人格権、そのどちらも人権なのだから、互いに調整して、表現する側も名誉棄損しないように、プライバシー侵害しないように、という譲り合いがある。

     しかし、この表現の自由も、国会の官邸前抗議行動のように、国家に向かって、少数者が自分たちの声を上げるときには、この13条に書いてあるように、『最大限に尊重されなければならない』。この『最大限』という表現は、『公益秩序に従え』という表現とぜんぜん違います。公益秩序に従わない場合には、警察がワッと出てきて、それをもっと黙らせるということになるでしょう」

    岩上「なるほど。表現の自由でいうと、自立性と公益性と公共性という3つがよく言われます。公共性と公益性、同じようなものに聞こえますが、まず『事実でないといけない』というのはわかります。そうした『公共公益のための言論でなければ駄目ですよ』ということは、常に名誉棄損裁判等々で言われてきていますけども、これはどうなのでしょうか? 自民党の改正案で変わりますか?」

    梓澤「これは、いわゆる政治的な言論についての制約が非常に出てくるというほかに、このインタビューを見ていらっしゃる方々に、特に申し上げたいのだけれども、インターネットの世界というのは、奔放な表現がありますよね。その奔放な表現に対して、『政治家に向かって、失礼なことを言った』とか、あるいは『不敬罪だ』とか、そういうインターネットの規制にも繋がっていくだろうと思います。

     それからなんと言っても、さっき言ったようなデモ行進や集会、そういうところへの公権力的な規制が強まっていく。さっきの国防軍審判所と同じように、社会の根詰まり感、石川啄木の描いたような閉塞感(※16)が、危惧されますね」

    (※16)石川啄木(1886年‐1912年)は、日本の歌人・詩人。1910年、石川は『時代閉塞の現状』という時評を執筆した。1910年は、「大逆事件」が起こり、翌年には、事件の裁判結果によって、幸徳秋水ら12名が死刑になった年である。石川は、裁判記録を綿密に読み込み、この裁判が権力による弾圧、冤罪であることを確信していたといわれている。(http://e-satoken.blogspot.jp/2010/12/1910100.html

    岩上「時代閉塞の状況になりかねないということですね。分かりました」


    ===================================
    ◆ 個性を持った『個人』から抽象的な『人』へ
    ===================================

    【現行憲法】

    第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


    【自民党憲法改正案】

    第13条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

    ──────────────────────────────────

    岩上「その次が、『人としての尊重等』第13条。これは『すべて国民は、個人として尊重される』が『人として尊重される』に変わっている。なぜか、わざわざ『個人』を『人』にしているのですね。これは、どういうことなのかなとは思います。

     そして、『生命、自由及び幸福追求に関する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』が『公益及び公の秩序』に変わっている。これは今論じたところなので、そこは置くとして、『個人』が『人』に変わったところ、ここはなんでしょう?」

    澤藤「よくわからないですね。ただ、今まで個人主義という言葉が定着しています。つまり、自由主義と個人主義です。自由主義というのは、結局のところ、個人を公権力が不当に規制してはならないということです。個人の尊厳、個人が大切だという考え方です。今まで、自由主義と個人主義がセットになって、個人が大切だと言ってきた。やっぱりその『個』という表現が、全体主義的な考えの方には、あまり好ましからざる言葉に聞こえるのではないでしょうか。個人主義はけしからん。個人主義ではなく、全体のことを考えろと。

     つまり、『人』というのは、非常に抽象化された人ではあるけれども、個性を持った『個人』、一人ひとりの個人というものと、やはりニュアンスが違いますね。そこは、私も指摘されるまで気が付きませんでしたけど、考えてみれば、そういうことではないでしょうか」

    岩上「これは『国家のなかの国民だよ』という意味合いもあるのかもしれませんが、同時に、少し気になるのは、いたるところに家族の強調が出てくる点です。

     家族というのは、もちろん大切なものですが、なぜ憲法で家族を強調するのかと言ったときに、これは少し考え過ぎかもしれませんけども、『個人として』という場合は、家庭のなかで、例えば親と考え方の違う息子という存在も含めて個人として尊重される、ということもあり得ると思うのです。しかし、家はひとつのまとまりであって、かつては家長制度、家父長制があり、制度として家長が財産権を握っているような状態の中で、家長に逆らえないような息子、娘、妻もいたわけです。

     そうしたことを考えると、家も1つの集団単位で、その中の人で、『個人』と言ったときには、家族からも切り離せる個人として屹立することが可能だけど、『人』の場合には、そうではないということをイメージしているのかな、と思ったりもします」

    梓澤「僕の考え方は、法律家の中では比較的少数派の芸術系なのですけども……」

    岩上「芸術系(笑)」

    梓澤「つまり、ロックをやる人とか、短歌や俳句をやる人など、芸術表現をやっている人は、『インディビジュアル(=individual)』と『パーソン(=person)』というのが違うということを、何かパーンと感じると思う。

     つまり、僕は、芸術表現──たとえば性表現の自由──に対して、非常に窮屈なものがひたひたと押し寄せてきているということを、この言葉の違いから感じます。きっとこれを作っている人、『個人』を『人』に変えた人は、胸の中に広がる精神世界が(われわれとは)違っているのではないかと思います」

    岩上「これは、ひょっとしたら、ボディのようにあとで効いてくるのかもしれませんね。ちょっとわからないところがありますが。

     では第14条に行きましょう。

     現行憲法は、『すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない』というもの。この『法の下の平等』ですが、ほとんど文章は変わらないんですが、自民党案では、そこに『障害の有無』という言葉が入りました。これは、改正案を見ると、僕は結構なことじゃないかなと思うのですが、これはいかがですか?」

    澤藤「結構なことだと思います」

    岩上「めずらしく、結構なこともあるのですね」

    澤藤「結構なことだと思います。しかし、わざわざこれを入れるために憲法改正をしなければならないかどうか。それはまた別の問題です。実際には、障害者福祉法で、いろいろと障害者に手厚い実質的な保護を与えること、その人権を擁護することが本当に重要なことで、これひとつのために、憲法改正まで必要か、ということはちょっと別の問題だと思います」

    岩上「基本的人権を尊重することから、これは自ずと出てくることですよね?」

    澤藤・梓澤「そう思います」

    岩上「障害を持っている方は、さきほどの13条『幸福追求に対する国民の権利について』──幸福追求権──があるわけですから、これがきちんと十全に守られるようなことであれば、そのために変えなくてもいいということですね。変える機会があったときに、こういうものを入れたらどうかという提案ならば、それは当然のことだろうと思います。

     ただ、よく考えたら、安倍首相は、選挙演説の中で『障害を持っている全ての方も』とおっしゃっているのです。特に、憲法改正と関係なく。『障害者の福祉のために頑張る』ということを、今回の選挙で訴えられてこられたのですね。あえて。だから少し、『あれ? 安倍首相ってそんなに、障害者、福祉に対する関心って高くおありだっただろうか』と思い、耳に残っていたのです。それで、この憲法案を見たら、ああ、ここに書かれているじゃないかと。だから、強調されたかったのだろうなと思いました。

     後ほど、環境権の話も出てきます。だから、自民党憲法改正案には良いことも入っていて、そこで気を引きたいといいますか、『そういう人たちに対する配慮もあるのですよ』ということはアピールされたいのだな、というのは分かります。でも、これは重要なことです。いずれ憲法を変える時があるならば、こういうことを強調するのは良いのではないかなと思います」


    ===================================
    ◆ 自民党の憲法改正草案は、在日外国人への差別を正当化するもの
    ===================================

    岩上「では、第15条にまいりたいと思います。現行憲法の『第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である』が、自民党案では『主権の存する国民の権利である』に変わっている。これは、どう違うのか。意味が分からない。『国民固有の権利である』というのと、『主権の存する国民の権利』、これはなんでしょうか?」

    梓澤「これは、在日の公務就任権という問題点がありまして、東京都のある在日の保健師さんが、国籍がないという理由で、課長に就任できる試験を受けさせてもらえなかった。

     今でも、差別を設けている自治体、そうでない自治体とあるのですが、その件が最高裁に上がっていったときに、『それは憲法違反ではない』ということにはなったのです(※17)。けれども、それをわざわざ憲法に書き入れてしまうと、そういう争いができなくなります。この憲法の考え方でいくと、『主権の存する』だから、『国籍のない人には、公務就任権がない』というところに結びついていくと思います」

    (※17)1988年、東京都に保健師として採用された在日韓国人の鄭香均(チョンヒャンギュン)氏は、95年と96年に管理職選考を受験しようとしたが、東京都は鄭氏が日本国籍を持っていないことを理由に、受験資格を否定した。鄭氏は、都に200万円の賠償などを求めていたが、2005年1月26日、最高裁大法廷は、合憲判断を下し、原告の請求を棄却した。(2005年1月26日『毎日新聞』)

    岩上「すぐあとに出てくるのですけれども、公務員の選定及び罷免に関する権利等、現行憲法では『第15条の3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する』。これが自民党案では『公務員の選定を選挙により行う場合は、日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による』と変えられている。この『日本国籍を有する』という部分と、その2項前の『主権の存する国民』というのが響きあっているということですか?」

    澤藤「そうでしょうね」

    梓澤「実は、また最高裁の判例があって、地方選挙権については、在日の人たちや永住権のある外国人に選挙権を与えても憲法に違反するものではない、という最高裁判例があるのです(※18)。それが、このように憲法を変えられてしまうと、もうできなくなってしまう。『日本国籍を有さないのだから、朝鮮籍も駄目』ということになるのです。参政権がそもそもできなくなっている」

    (※18)1990年、特別永住者である在日韓国人が,大阪市の各選挙管理委員会に対して、選挙名簿への登録を求めて、公職選挙法24条にもとづき、異議の申出をした。しかし、選挙管理委員会がこれを却下したため、彼らは大阪地裁に提訴。その後、最高裁に上告したが、棄却された。しかし、最高裁はその判決理由において(いわゆる傍論)「地方レベルの参政権については法律による付与は憲法上許容される」と記し、部分的許容説に立つ見解を示した。

    岩上「分かりました。じゃあ、ここは恐らく、在日の方々に対する様々な制約を正当化することを狙っているのではないかと……」

    澤藤「それはもう明らかだと思います。結局、自民党の憲法改正案は、いわゆるナショナリズムが非常に濃厚なトーンで貫かれていますから。最初に、『天皇を戴く国家であって』から始まりまして、結局は、ナショナリズム高揚の憲法を作りたいと考えている。そう言ってよろしいと思います。これも、その伏流水が出ているところだと思います」

    岩上「私が『ちょっと複雑で、不思議だな』という思いに駆られるのは、こうした憲法を想定しよう、策定しようという人のことです。改正しようという人は、戦前に復古するのだということ、そう思っている人は多いと思うのです。戦前に復古して、大日本帝国の再現をしたいと思っている人も多いと思うし、警戒する人も、そのように言います。『大日本帝国の再現をしようとしているんじゃないか』と言って警戒します。

     しかし、在日の方がなぜ日本にいるのかというと、多くの方は、その大日本帝国時代、韓国を併合し、そこの韓国・朝鮮の人たちが日本国民になっていったわけです。日本の天皇の臣民とされたわけです。強制で連れてこられた人もいたといわれますが、その国民が、当たり前ですけど、国土の中を自由に動くことができて、働きに来たりしていたわけです。そして、そのまま終戦になって、残留していた。このときは、これまで日本国民、天皇陛下の臣民だったのに、『今日からは違う』と言われたようなものです」

    梓澤「サンフランシスコ条約の1週間前の民事局長通達で、日本国籍を持っていた在日朝鮮人、在日韓国人が、その日本国籍を一斉に奪われた」

    岩上「国籍を奪った。それで、その後は、そういう状態にあった人たちを、特別に残留させていく制度になってきていた。それが今日続いているわけですけれども。

    大日本帝国については、明治の最初の時期から、明治政府のトップにいる人たち、維新の志士、あるいは、幕末の頃からも、もう征韓論(※19)は出まくりで、基本的に新しい国家を作ると同時に朝鮮へ打って出ようとしていた。朝鮮はひと呑みにして、清もひと呑みにしていこうなんていう考えは、もうあらゆる明治維新の志士と言われるような人たちの中にあったわけですよ。幕府の側にも水戸学を学んだ者にはそういう考えはあった。だから征韓論は大前提だった。そのぐらい、韓国併合への野望はあからさまだったのです。

     だから、この自民党の憲法改正案をつくった人たちが、『韓国、朝鮮の人たちは、徹底的に自分たちとは違う』『差別的に扱います』と延々と強調しているのは、なんだか元へ戻ると言っていますけど、大日本帝国の人たちの考え方とはまた違ったナショナリズムのあり方なのだなと、ふと思いました」

    (※19)征韓論(せいかんろん):日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張のこと。(http://ja.wikipedia.org/

    梓澤「例えば大阪には、在日朝鮮人、在日韓国人がたくさんいるわけで、ある行政区では、50%ぐらいの人しか日本国籍を持っていません。まさに、橋下徹市長の大阪市です。僕は、自民党の人がみんなこれに賛成しているのか、ちょっと首をひねります」

    岩上「とにかく、今回のナショナリズムの高揚に特徴的なのは、嫌韓、それから反中ということです。それも、身近にいる在日の人たちと、どうも気にくわないというような感情とかが先走っているようなものです。でも一方で、戦争をできる国にするっていうシステムづくりなのです。

     でも、明治時代、それは良い悪いで言ったら、明らかに悪いのですけれども、征韓論を唱えていた明治の人たちの国防強化というのは、『併合に向かう』『侵略してそこを取る』ということがあからさまだったのです。お互いにはっきりそのことを論じあっていたのですから。西郷隆盛だってそうですし、島津斉彬や橋本左内、木戸孝充だって、みんなそうです。国力を充実させるまでは駄目だと言ったのは大久保利通ですが、彼の頭の中に征韓論がまったくなかったとは言えないわけです。

     彼等、今日の改憲論者は、戦争をできる国にするというのでしょう。そして韓国も、日本が右傾化することをすごく怖がっていて、また侵略されるのではないかと言うのですけれど、こんなにも在日に対して厳しくするということは、朝鮮を開国したかった明治国家の人々のように、『同じような民族なのだから、これから一緒に暮らそうじゃないか』などといったことを考えない戦争をしようということなのでしょうか。僕は、ちょっとよくわからないのですけれど。何を目指しているのだろうと」

    澤藤「何を目指しているのかは、よくわかりませんけれども、『日本民族は単一民族で、その民族が天皇を戴いて、まとまりのある国を作っていくのだ』という宣言をしているわけですから、『在日朝鮮人は天皇を戴かないだろう。在日中国人もそうだろう。そういうものに参政権などは与える必要はない』ということ、それはそれなりではないでしょうか」

    岩上「併呑をしない戦争をする気なのでしょうか。私にはちょっと分からないのですけれども、時間の都合で次にいきたいと思います。もしできなかったら、また次回ということでお願いします」


    ===================================
    ◆ 国民から権力者への命令が、自民党案では逆転する
    ===================================

    【現行憲法】

    第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。


    【自民党憲法改正案】

    第18条 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。

    ──────────────────────────────────

    岩上「『身体の拘束及び苦役からの自由』というところ、これも非常に重要だと思うのですが、現行憲法の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』という言葉がなくなってしまっているのです。そして、自民党案では『その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない』ということになっています。

    また『思想及び良心の自由』に関しては、現行憲法の『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない』が、自民党案では『思想及び良心の自由は、保障する』に変わっています。まず、『奴隷的拘束も受けない』というのがなぜなくなっているのか」

    澤藤「今まで18条は、徴兵制は違憲だということの根拠にされていた条項です。それを鑑みると、なるほど、そこはうまく免れるようにしているなと思います」

    岩上「なるほど。徴兵制への布石ですか?」

    澤藤「そういうふうに読めるところですね。それから、19条はよくわかりません」

    梓澤「ここは、僕はこういう意味だと思います。『侵してはならない』というのは、裁判規範として、妨害排除的な意味を持ち得るわけです。ここより前にも、12条、13条のところに『侵してはならない』といっているところがあるのですが、これを裁判所に持ち出したときに、現行の19条のほうが裁判の規範となります。思想・良心を侵害された人たちが裁判所に訴える。そのとき、弁護士が人権を守るために、裁判所に対して『強く妨害を排除できる』と言えるか言えないかというと、自民党案の場合では、ちょっと僕は、ニュアンス的に違ってくると思いますね」

    澤藤「僕は、19条で裁判をやりまくっていますから、現行で使ってやっていますけど、『もし“保障する”に変わったら遠慮するか?』と言われたら、それは絶対にしないけど……」

    梓澤「しないけどね」

    岩上「遠慮しないけども、『保障する』と『侵してはならない』というのは、誰が誰にあてて書いたものなのか。政府や特権者に対して、国民が命じる者として、憲法は宛先がそちら(政府)になっていると前回のインタビューでもお話がありました。

     これはすごく重要なことで、これを『侵してはならない』というのは、国民が権力者に対して『侵すなよ』と言っている、命じている。それに対して、自民党案では『思想及び良心の自由は保障する』となっている。これは、政府や権力者が国民に対して『お前たちは保障してやってもいいぞ』と言っている。こんなふうに、主語と目的語が変わってしまっている」

    澤藤「あぁ……、僕は、あまりそういうふうに読まないのですけれども、確かにそういうふうに読めますね。私などは、『侵してはならない』の主体も『保障する』の主体も、国家に対する命令としてなされているのだと読んでしまうわけです。だから、『これを侵してはならない』が、国民が国家に向けて発した命令だというとわかりやすいですよね。ところが、自民党案は、やっぱりその点はややわかりにくいですね」

    岩上「だからこれは、もう書いた時点で、書いている人自身が、『国民が国家に対して発した命令』という立憲主義の根本、そういうベクトルを理解していない。憲法を普通の法令の最上位に、ただ持ってきたもの。だから、『お前たちのことを保障してやるよ』となってしまう。『国家として、お前たちに与えてやるよ』という言い方に聞こえるのです」

    梓澤「無意識が反映している。無意識が」

    澤藤「なるほど。おっしゃられれば、その通りですね」

    岩上「それから、自民党案の『第19条の2 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない』という、個人情報保護法に繋がる不当取得の禁止の話に入ってくるのです。『個人情報は守らなきゃ』ということが、今、社会的なコンセンサスになっていますから、これだけ見ると、悪いことではないように感じるのですけれど、これ、政府はどうなの? って思いますね……」

    澤藤「そうです」

    岩上「そうですよね。これまた、政府を除外して、政府は国民に対して命令をしていないかと。民間は駄目だけど、政府は別だよと」

    澤藤「『何人』の中に政府も入るのでしょうけれども、憲法というのは本来、政府に対する規制でなければならない。そういう体系であるはずですけれども、それが、そうなっていない。別に、政府に対する命令でなければ、普通の法律を作ればいいわけで、憲法まで上げる必要はないわけです。本来の憲法事項ではないものが混じってしまっている。自民党案には、こういうのがいくつか見られます」

    梓澤「これについては、ときどき、先ほどの『障害の有無』のところみたいに、良い条文の例に挙げる人もいるのだけど、僕は違うと思います。よく読んでみてください。『何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない』。これを、新聞記者やインターネットメディアの取材者の側に身を置いて読んでみると、『何人も──いかなる取材記者も──、政治家に関する情報を不当に取得し』となります。『不当に』です。『違法に』ではなくて。

    『不当に』取得してはならないということになると、この下位法規である個人情報保護法について、他人情報の中に入っていく取材活動への規制を、もっと徹底して発展させていくと思います。僕は、個人情報保護法反対運動のとき(※20)にいっぱい論文を書いたり、デモをやったりしていたので、非常に敏感になっているのですけども。これは、この19条の2は褒めてはいけないと思います」

    (※20)2000年10月に政府IT戦略本部の個人情報保護法制化専門委員会が首相に提出した「個人情報の保護に関する大綱」を下敷きに、政府は直ちに「個人情報保護に関する法律案」の作成作業に入り、2002年に個人情報保護法関連五法が国会に提出された。個人情報保護法は、個人情報を取得する際に個人情報の利用方法を本人に明確に伝えなければならないと定めるために、報道の自由を侵害するなどの理由から大きな反対運動が展開された。(http://ja.wikipedia.org/

    岩上「僕も個人情報保護法反対運動をやりましたので、梓澤さんとすれ違っているのですけど、もちろん、僕は良いとは思ってないです。ただ、今時だと、多くの人の『これは結構なことだ』というコンセンサスを得やすいと思いますので、非常に問題はあります。

    しかし、ここの『不当に』という箇所には気づいていませんでした。『違法に』ではない。『不当に』というのは曖昧ですね。違法でなくても、不当だと言われる。そういうことになると、グレーゾーンも駄目という話になりますから、大変なことです、これは。

     それから、次は『信教の自由』です。現行憲法では『第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない』とありますが、自民党案では『国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない』に変わっている。

    現行憲法の『いかなる宗教団体も』というのは、宗教団体が主語ですね。そして、『国から特権を受け』て、『政治上の権力を行使してはならない』。『宗教団体が、権力を行使しては駄目』ということになっているのですけど、自民党案では『国が、宗教団体に対して、特権を与えてはならない』と、また主語が変わっていて、それから『権力を行使してはならない』が消えています。これは、どう読みますか?」

    澤藤「20条でいう宗教というのは、宗教一般というよりは、やはり戦前の天皇制と結びついた国家神道をイメージしている。とりわけ靖国とか、伊勢神宮とかですね。つまり、『いかなる宗教団体も』とありますが、国家神道の中で、軍国主義的な側面を最も出しているのが靖国神社であり、そうした国家的宗教、あるいは国家神道、たとえば靖国神社、というふうに読めば、20条というのはわかりやすく読めます。

    しかし、自民党案ではそれが、どうも薄められたというか、国家神道復活の兆しがある。あるいは国家神道に対して、『そんなに厳しく言う必要はないよ』という感じを受けます。こういうこととしては、見過ごすことはできないと思います」

    岩上「なるほど。主語が倒置したのはどういうことなのでしょうか? 政治上の権力を与えてはならないというのは、まさに国家神道ですよね。『国家神道が、そういうことをやってはならない』というのが弱められたのは、非常にわかりやすいのですが」

    澤藤「つまりは、国家神道を頭において……」

    岩上「直接、国家神道に向かって言うよりも、国がいかなる宗教団体に対しても、特権を与えては駄目だと、曖昧な文言にしたということでしょうか」

    澤藤「そういうふうに取れますね」

    梓澤「もう1つ、この憲法改正の動向について、自民党や公明党など、いろんな政党があって、宗教団体とも非常に関係の深い政党もあります。そういう宗教団体を拘束するよりも、『国は』ということによって、そういう宗教団体側の人たちがこの改憲案に親和性を持てるような、そういう工夫がしてあるのではないですかね」

    岩上「なるほど。これも、スッと見過ごしてしまいそうですけれど」

    梓澤「岩上さんに指摘されて、ここはちょっと大事なとこだなと思いました。つまり、今後の憲法改正をめぐるいろんな政党の動向をも考える上で大切なところかもしれない」

    岩上「そうですね。少なくとも、『政治権力を行使してはならない』というのが消えているのです。そこは重要です。

     と、ここでもう時間がないということなのですが、次回、続きをやらせていただけませんか?」

    澤藤・梓澤「そうですね」

    岩上「やっぱり条文を読み込んでいくと疑問がわくんですよね。大雑把なポイントは、今までも論じられて来ています。前回のインタビューでも、私が休んでいるときに、基本的人権の制約の問題、立憲主義の問題とか、説明してはいただいているのですけど、1つ1つは、やはり法律ですから、これは精緻に読まないといけないのではないかと思います。

     本日は、憲法の第20条第1項まで、みなさまと勉強いたしました。ほぼ『ゼミナール改憲』という状態になりましたけど、両先生には次回も、引き続きお付き合いいただければと思います。おそらく次回は、年を越すと思いますけれども、越年でひとつお願いします」

    澤藤「わかりました」

    梓澤「良いお年を。今年は色々とありましたけど、来年は希望に向かう年にしたいですね」

    岩上「はい。ありがとうございます。それでは、澤藤先生、梓澤先生、どうもありがとうございました。ご視聴いただいた皆さんも、どうもありがとうございました」

    (後編・了)

    (文責・岩上安身、協力・大西雅明)


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