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    岩上安身のIWJ特報 第79号「信教の自由」と「表現の自由」が保障されなくなる~自民党憲法改正草案ゼミナール・第2弾(前編) 

    第79号
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
                 岩上安身のIWJ特報
          「信教の自由」と「表現の自由」が保障されなくなる
    ~自民党憲法改正草案についての逐条ゼミナール・第2弾(前編)
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    (IWJより転載許可済み)


     「まずは96条の改正に取り組む」。安倍晋三総理が憲法96条の改正について、そう言明したのは、1月30日の衆院本会議だった。

     現行憲法の第96条では、憲法改正のための発議には衆・参議院それぞれにおいて、総議員の3分の2以上の賛成が必要だと定めているが、安倍総理は、この規定を総議員の過半数に変えようというのである。言うまでもなく、改憲を行いやすくするためである。

     安倍総理の言明から約1カ月半。3月に入ってから、自民党だけではなく、野党をも含めた改憲派の動きが活発化している。

     自民党の菅義偉官房長官は、3月11日の記者会見で、「政府としては96条の改正に全力を挙げて取り組みたい」と述べ、本会議での安倍総理と同じ発言を繰り返した。また、民主党、日本維新の会、みんなの党の3政党がつくる超党派議連「憲法96条研究会」が3月15日に初会合を開き、96条改正に向けて議論を行った。また、これとは別の自民党を中心とした超党派議連「憲法96条改正を目指す議員連盟」も3月中に総会を行う予定だ。

     現在の参議院議席数は、自民、維新、みんなの3党を足しても103議席で、公明党を合わせても122議席。憲法改正に必要な全議席の3分の2以上である162議席にはまだ届かない。そこで安倍内閣は、改憲手続きに関する96条の改正論議を先行させ、具体的な内容に踏み込んだ改憲論議は7月に行われる参院選後に先送りする腹づもりだろうと見られていた。

     ところが、ここにきて雲行きが変わってきている。改憲に向けての議論の足取りが早まってきているのである。

     3月14日、衆院憲法審査会は今年初となる会合を開き、憲法第1章(天皇)と第2章(戦争の放棄)について議論を行った。自民党、日本維新の会、みんなの党が、天皇を元首と位置づけることを憲法に明記すべきだと主張する一方、民主党は改正は必要ないとの立場を表明、公明党、共産党、生活の党なども改正には否定的な意見を示した。

     戦争の放棄に関しては、自民、維新、みんなの3党は集団的自衛権行使を含めた9条改正を求めたが、公明党は反対、民主党と生活の党は賛否を明確にしなかった。安倍総理は、9日に出演したBS朝日の番組でも、“将来的に憲法9条を改正し、国連の判断で軍事的な措置などで侵略行為を除去する「集団安全保障」に参加することに意欲を示した。(毎日新聞 3月10日)”

     手続きの改正だけでなく、改憲の中身の議論が進み始めているのである。

     私は、自民党憲法改正草案について、澤藤統一郎弁護士と梓澤和幸弁護士とともにこれまで計3回の逐条ゼミナールを行い、第1回目の模様をメルマガ第73号・第74号で紹介した。今号では、1月25日に行った第2回目の逐条ゼミナールの模様を紹介する。

     この日のゼミでは、主に第20条「信教の自由」と第21条「表現の自由」という非常に重要な条文について解説を行った。自民党案では、集会、結社及び表現の自由を定めた21条を完全に否定する21条の第2項が新設されている。

     梓澤先生は、治安維持法を引き合いに出して自民党案の危険性を指摘し、澤藤先生も「実現すれば、そういう世の中(=明治時代)に戻りかねないと考えています」と警鐘を鳴らした。

     また、3月12日に行った第3回目の逐条ゼミナールの動画を、IWJのHPにアップしている(http://iwj.co.jp/wj/open/archives/67033)。ここでは、冒頭で紹介した第96条について詳しく解説をしているので、このメルマガと合わせて是非ご覧いただきたい。

    ===================================
    ◆ 第20条 信教の自由 自民党案は明らかに後退している
    ===================================

    【現行憲法】

    第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
    2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
    3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


    【自民党憲法改正案】

    第20条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
    2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
    3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

    ──────────────────────────────────

    岩上安身「今回は、自民党の改憲草案と現行の日本国憲法(http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf)、これらを対比しながら、徹底的に解説、批評、論評を加えていこうという逐条ゼミナールの第2回目です。澤藤統一郎弁護士、そして梓澤和幸弁護士にお話をうかがっていきたいと思います。先生、よろしくお願いいたします」

    澤藤統一郎弁護士・梓澤和幸弁護士「よろしくお願いします」

    岩上「前回は、20条の第1項を話したところで終わりました。したがって、今度はその次、第2項ですが、これは現行憲法も改正案も同じです。変わるのは第3項です。現行憲法には、『国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない』とありますけれども、これが自民党の改憲案では、『国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない』と書いてあります。

     これを見てすぐ頭に浮かぶのは、靖国神社の参拝ではないかなと思います。『社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない』のだから、神道の神社にお参りすることは何か問題があろうか、ということを定めているように思うのですが、いかがでしょうか?」

    澤藤「まず、20条全体の解説をして、それからこの改正にどういう意味があるのかについて、意見を申し上げたいと思います。

    20条には、2つのことが書かれています。1つは、国民各個人に信教の自由があること。つまり、どんな宗教を信じるか、あるいは信じないかという自由が保障されている。これに国家は関与してはならない。憲法を学んだ方、あるいは歴史を学んだ方には当然、周知のことですけれども、いろんな人権制度がある中で、宗教の自由というのは、歴史的にいつも筆頭にありました。

     つまり、(宗教の自由は)人が精神生活を行なう上で、最も大切なものであり、しかも、国家権力等と、激しい形でぶつかってきた。そういう歴史の中で、どの憲法も信教の自由を必ず保障している。むしろ、ある憲法は、これを獲得するためにできたというような歴史もあるわけです。それが、現行憲法の20条の1項と2項なのです。

     1項と2項は、国民の信教の自由というレベルで、ものを言っている。特に、2項。これは、例えば学校行事その他で、戦前の憲法体制の中で、臣民の信教の自由は一応認められていた。ただし、それは臣民足る義務に背かざる限り、そして法律の留保、つまり法律に抵触しない範囲において、と言われていた。

     ですから、例えば(戦前は)学校教育の中で、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)──天皇の住んでいるほうに向かって、頭を下げさせること──などを、当然強制してもいいのだということになっていたわけです。例えば、上智大学は、カトリック系の大学ですけれども、こういうところにすら、宮城遥拝、あるいは靖国神社参拝の命令をしているわけです。

     学校当局は、最後には受け入れるわけですけれども、そういういろんな事件があって、この20条の2項というものがある。つまり、何人も宗教上の行為を強制されない。祝典、儀式、行事などにおいて、宗教的な意味合いを持っているものには、その参加を強制されることがない。つまり、今まで私どもが先進国と考えていた国の普遍的なもの、プラス日本の特殊事情を踏まえてできたのが20条1項と2項なわけです」

    岩上「浄土真宗だと、神祇不拝(じんぎふはい ※1)と言いますよね。我々は神を拝まない、という考え。それに対して、やはり戦前・戦中には、強制されるようなことがあったのでしょうか?」

    澤藤「それはそうですね。大変有名な僧侶で、大逆事件(※2)に連座しておられる方もいらっしゃいます。自民党が言っている日本の歴史伝統文化とは、天皇を戴く国であるということです。その天皇を戴く国というのが、国家神道という宗教体系で語られていたわけです。戦前、いろんな宗教弾圧があったのは公知の事実ですけれども、これは結局、国家神道と矛盾する、また抵触するような宗教団体が徹底して弾圧されたということ。その苦い教訓が、この20条第1項第2項になっているわけです」

    (※1)神祇不拝:神祇とは、天神地祇(てんじんちぎ)の略で、天の神と地の神、すなわちすべての神々の総称のこと。浄土真宗では、親鸞が説いた「神祇不拝」の教えを基本とし、自身の苦悩から抜け出すために、神頼みや仏頼みなどの祈願を行うことを否定している。

    (※2)大逆事件(たいぎゃくじけん):明治43(1910)年、多数の社会主義者・無政府主義者が明治天皇の暗殺計画容疑で検挙され、12名が死刑された大冤罪事件のこと。

     明治43年5月、宮下太吉ほか4名が、「爆発物取締罰則」違反で逮捕された。このころは、日露戦争を機に、社会主義運動が高揚していた時代で、明治政府はなんとかして運動家たちを押さえ込もうと計画していた。
     そこで明治政府は、この爆発物事件を利用して、全国の社会主義者や無政府主義者に対して取調べや家宅捜査を行い、弾圧を展開した。その結果、検察がでっちあげた「明治天皇暗殺罪(大逆罪)」によって、26名が逮捕・起訴され、うち24名に死刑判決が下された。公判は6回行われたが、証人喚問はゼロ、かつ非公開で行われた。

     明治44年1月24日、幸徳秋水や森近運平、宮下太吉ら11名が、翌25日に管野スガが処刑された。これは、大審院が死刑判決を下してからたった6日後のことで、判決から死刑執行までが異例の速さで行われた。また、死刑判決を下されたほかの12名は、その後無期懲役に特赦減刑された。

     今年は大逆事件から102年にあたる。1世紀を経て、再びあの時代と似たような世相になりつつあることを懸念した有識者らが、1月24日、「102年後に大逆事件を問う」と題する院内集会を開いた。IWJは、この集会の中継を行った(http://iwj.co.jp/wj/open/archives/54856)。


    岩上「前回話していただいた条項に、国家と国旗の尊重という項目がありました(第3条)。国家、国旗の尊重が憲法に謳われることと、この第20条の信教の自由、とりわけその第2項『何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない』というところは、矛盾して、せめぎ合いになるところじゃないでしょうか?」

    澤藤「ええ。もうすでにせめぎ合いになっているところです。石原教育行政(東京都の教育行政)が行なった、国旗国歌に対して、起立、斉唱をするということ。これは、かつては必ずしも命令ではなかったわけです。

    けれども、2003年に石原慎太郎氏が第2次の当選を果たし、東京都民が308万票という圧倒的な多数得票で支持をしたことから、『10.23通達(※3)』というものが出て、国旗国歌に敬意を表明すべく、国旗に正対して起立し、国家を斉唱すること、という職務命令が、いま東京都の教員全員に出るわけです。一人一人に手渡されるわけですね。

    (※3)2003年10月23日、東京都教育委員会は、都立学校の入学式・卒業式などにおける国旗掲揚・国歌斉唱の実施について、教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すべきこと、国旗掲揚・国歌斉唱の実施にあたり、校長の職務命令に従わない教職員は服務上の責任を問われることを周知すべきことを通達した。


     これはもう大変異常な事態だと思いますけれども、そういう中で、その職務命令を潔しとしない方々がいらっしゃいます。私は、だいたい700名の方々の裁判を担当しましたけれども、その中で、宗教上の理由という方がいらっしゃるわけです。これは憲法20条の問題になる。

     それから、宗教以外の理由では、政治的な信条、あるいは教員としての良心から、どうしてもこれに服することができない方がいらっしゃいます。中には、自分が寄り添わなければならない子どもたちの中に、在日の子がいて、どうしてもその子が『日本の君が代、日の丸に服することができない』という。それに寄り添わなければならない教員のあるべき立場を考えると、自分も子どものためにどうしても立てないという方もいらっしゃるわけです。こういう方は、19条(思想、良心)の問題になります。

    しかし、一定の割合で、宗教者として、どうしてもこれに服することができない、という固い信念の方がいらっしゃいます。例えば、そういう方からすると、日の丸は、国家神道のシンボルである天照(あまてらす)という太陽神の形象に見えるのです。

     あるいは、君が代は、戦前がそうであったように、神の子孫であり、自らが現人神(あらひとがみ)である天皇に対する敬意を表明して、その世が永久に続くように、という神なる天皇を寿ぐ歌であって、自分としては、自分の宗教である別の聖歌を歌わなければならず、そういうことに服することができない、という方がいらっしゃるわけです。この19条の問題と20条の問題が、今せめぎ合っているわけです。

     それで、現行20条の解説の続きですけれども、1項2項は、国民の側を見て、すべての国民の権利として、信教の自由がある、といっています。これはつまりは、一人一人がどんな宗教を持つことも自由です、持たないことも自由です、これを決して強制されることはありませんよ、不利益を受けることはありませんよ、と言っている。

     3項は、公権力に対する規制、命令になるわけです。最高裁判例の用語で言いますと、『制度的保障』。つまり、人権そのものの規定ではないけれども、人権を徹底して擁護するために、ある制度を作って、これを守らなければならない、と公権力に対して、命令をしている。

     普通、『政教分離』と言います。政教の政とは、これは政治権力のこと。教というのは、これは宗教の教、教えということですね。この政と教とは、高い壁に隔てられて、政治は宗教の世界に入り込んではいけないというのが、『政教分離』です。フランスなどは徹底していると言われていますけれども、いろいろ疑問はあります。アメリカも徹底していると言われますけれども、またいろいろな問題があります。

     しかし日本は、徹底して政教分離を選んだという歴史があるわけです。なぜならそれは、あえて言いますけれども、野蛮な、これ以上ない天皇制の宗教政策があったからです。例えば、(ナチスの宣伝大臣だった)ゲッベルスが、『ナチは宗教を国民の精神支配に利用することに成功しなかった。これをやり遂げたのは日本の天皇制政府である』ということまで言っている(※4)。

     つまり、日本の天皇制政府は、国家神道という道具で、国民一人一人の精神の中まで支配しようとした。その復活を許さない、という厳格な条項が、この20条第3項だと読まなければならない。ところが、現行の20条第3項と、自民党案のものを並べて読めば、明らかに後退している。

     これは、自民党のほうから言えば、『これが最高裁判例だよ』と言いたいところだと思うのです。しかし、最高裁判例の読み方はいろいろあります」

    (※4)四国学院大学山崎和明氏の講演『反ナチ抵抗牧師の決断 ─ヒトラー暗殺・クーデタ計画─(http://www.kinjo-u.ac.jp/kibunken/document/chair_20031124.pdf)』の中で、以下の通り、ゲッベルスの言葉が紹介されている。

    「われわれ(ドイツ人)が国民意識と宗教心とを完全に一致させるエネルギーを生み出さなかったことが、われわれ(ドイツ人)の国民的不幸である。われわれの望むものが現実にどんなものかは、日本国民に見ることができる。そこでは、宗教的であることと日本的であることとは一致する。この国民的及び宗教的な思考と感情の一体性から巨大なダイナミズムを持った愛国のエネルギーがわき上がってくる。

    ……戦死した英雄たちのヒロイズムを国民的神話に拡大するような、戦死者に対する宗教的義務を、われわれ[ドイツ人:山崎注]は、残念ながらまだ所有していない」


    ===================================
    ◆ 自民党案では、人権を制限する言葉が追加されている
    ===================================

    岩上「最高裁判例の中に、このような『社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない』という文言があるのでしょうか?」

    澤藤「明確にそうではないのですけれども、最高裁判例は、いま『目的効果基準(※5)』と言われています。つまり、目的と効果と、この2つを見るのだと。これはアメリカの連邦最高裁の判例からヒントを得て、独自に日本の最高裁が作り上げました。もし時間があれば、少しご説明したいのですけれども、有名な『津地鎮祭訴訟』というものがあります。

    『伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ』といわれる、三重県の津です。津市の体育館の起工式に、津市が神職を呼んで地鎮祭をやりました。これは宗教行事ですが、この行事に、当時のお金で4千数百円のお金を払った。これが違法か、あるいは違憲か、ということで争われた住民訴訟が、『津地鎮祭訴訟』です。

     この訴訟において、名古屋の高等裁判所は、『これは違憲である』ということを非常に明確に言いました。『これは宗教だろう』と。『宗教行事に国が関与してはならない。20条3項をみれば当たり前だろう』と言ったわけです。今の20条3項なら、そう読めます。この津地鎮祭訴訟における名古屋高裁判決は、引用されることが大変多い。

     この判決の中に、『こんなことは、たいしたことじゃないじゃないか、と言われる向きもあるかもしれないけれど、今日滴る水流の一滴が、大きな本流となって、社会を変えてしまうということを肝に銘じなければならない』という有名な文句があります(※6)。それで、厳格に解してある。しかし、最高裁がそれをひっくり返して合憲にしたのです(※7)。これは、大変有名な判決です。10対5で、反対意見が5つきました。

     この判決の中で使われたのが、『目的効果基準』です。つまり、原則と例外を換えて、『原則はできる』と言ったのです。地方自治体も、宗教的な活動を『原則はできる』のだと。しかし、できないものがある。それは、その目的が宗教的な意義を持ち、その効果において、特定の宗教団体を促進、助長、あるいは圧迫、干渉するようなものだ、と言ったわけです。

     その中で、『こういう社会的儀礼、または習俗であればいい』ということが、結局、『目的が習俗になっていればいい』となるわけです。いま私が裁判中の、国旗国歌の事案も、結局は、『これは社会的な儀礼だから、憲法19条に違反しない』と言うわけです。

     そういう意味では、この『社会的儀礼又は習俗論』というのは、今ですら、人権を制限するために使われている言葉です。これは、ひとつは宗教弾圧に使われる言葉ですし、それだけではなくて、思想、良心、あるいは表現の自由など、広く一般に基本的人権を制約する理屈に使われる言葉です。私は、これが自民党案のように、20条3項の中に明定されることは、絶対にあってはならないと考えています」

    (※5)国や自治体の行為が、憲法が禁じた政教分離原則に抵触するかどうかを判断するための判例上の目安。「津地鎮祭訴訟」最高裁大法廷判決で示された。宗教とのかかわり合いはどの程度までなら許されるかについて、「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教を援助、助長、促進または圧迫、干渉する行為」をした場合は憲法に違反する、と定義付けた。

    また、行為がこの宗教的活動に当たるかどうかを検討する際は、「行為に対する一般人の宗教的評価、行為者の意図、目的、一般人に与える効果、影響などの事情を考慮して」「社会通念に従って客観的に判断すべき」とした(http://plus.yomiuri.co.jp/)。

    (※6)津地鎮祭訴訟の控訴審判決(昭和46年5月14日)の中に、以下の文言がある。「本件において、津市が地鎮祭を神社神道式で行なったところで、とりたてて非難したり重大視するほどの問題でないとする考え方は、右に述べたような人権の本質、政教分離の憲法原則を理解しないものというべきである。政教分離に対する軽微な侵害が、やがては思想・良心・信仰といった精神的自由に対する重大な侵害になることを怖れなければならない」

    (※7)昭和52年7月、最高裁判所大法廷は、津市が行った地鎮祭の目的は世俗的なもので、その効果は、神道を援助、助成、促進するものでないため、憲法第20条第3項により禁止される宗教的活動にはあたらず、これに対する公金の支出も憲法第89条に違反するものではないとの判決を下した。


    ===================================
    ◆ 靖国神社は、国民に対する精神支配装置
    ===================================

    梓澤和幸弁護士「現行の条文が、『国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない』となっているのに対して、自民党草案の方は、『特定の宗教のための教育その他の宗教的活動』としていて、目的を限定しているように読めます。この辺、何か違いがあるのではないですか?」

    澤藤「まず、『宗教教育をしてはならない』が、『特定の宗教のための教育をしてはならない』に変わった。宗教教育において、例えば宗教的な情操教育をする。あるいは、いかなる宗教に対しても寛容でなければならないとか、いかなる宗教も無宗教も併存できるのだ、というような教育をするのは、特に問題ではなく、むしろ望ましいことだと思います。

     だから、公教育の中で、『宗教に触っちゃいかん』というような、そういうバカげたことはない。そういう意味では、『特定の宗教のための教育をしてはならん』というのは、それはそれなりのことだと思います。

     ただ、問題は『いかなる宗教的活動もしてはならない』というところ。これは、非常に幅が広いわけです。まず、『宗教活動』より『宗教的活動』のほうが広い。しかも、『いかなる宗教的活動もしてはならない』です。つまり、現行憲法は、政教分離の壁は非常に高い、ということを強調している文言であると読まなければならない。それが、自民党案では『宗教的活動をしてはならない』だけになっている」

    岩上「つまり、宗教の多くは、儀礼が寄せ集められて作られ、それによって構築されていますから、ここで言う『宗教的な活動』に『儀礼』も含まれるとしたら、拝むことや、その他ほとんども儀礼行為のなかに括られてしまうと思うのです。一見、靖国参拝だけの話と思いきや、もっと色んなことが入ってくるかもしれない」

    澤藤「私は、靖国に関する訴訟をずっとやってまいりましたけれども、国家神道の中の、非常に軍事的な側面、あるいは排外主義的な側面を象徴するのが、靖国神社だと思います。もちろん、私は、亡くなられた戦没兵士に対して、哀悼の意を表することは当然だと思いますが、国家が、そういう死者の霊を祭る権利を独占することはあってはならないと思います。

     かつて靖国神社は、国民に対する精神支配のため、しかも天皇のために死ぬことが臣民としての最高の栄誉であり、義務であるということを教えるための装置としてできました。

     亡くなった戦没者の母親にしてみると、『うちのぐうたら息子が戦死をして、なんともったいなくも天子さまが自らお参りをして下さる。こんな名誉なことはない』という大衆の感情に訴える基盤を持った装置なのです。

     現在もそうです。『国が、国のために死んだ者を祭ることがどうして悪いのか』という非常に単純だけれども、強い論理があるわけです。それだけに、私は危険なものだと思います。こういうかつての軍国主義や天皇制、なかんずく天皇制を支えた国家神道という精神的な側面の軍国主義の象徴である靖国神社と国が接点を持つようなことはあってはならない。

     天皇が、靖国神社に参拝をしたり、あるいは内閣総理大臣が、その自らの資格で参拝をしたりすることはあってはならない。絶対にこれは別のものだ、という原則をいささかも崩してはならないというのが、私の考えです。

     靖国神社というのは、一言で言えば、かつては軍事的な宗教施設でもあり、宗教的な軍事施設でもあった。若い方はご存じないかもしれませんが、各神社のトップを宮司といいます。靖国神社の宮司は、陸軍大将と海軍大将が務めています。

     神社というのは、かつては神祇省、あるいは文部省の管轄であったけれども、靖国神社だけは、陸海軍が管轄をしていた。警備は、警察ではなく、軍が行っていた。そういう軍事施設なのです。だからまさに、政府と軍、それから宗教(国家神道)、これらが融合した大変大がかりな装置が、靖国神社であったのです。

     これが今、宗教法人として私的なものになっているはずなのですけれども、どうしても国家と結びつきたい、という衝動を抑えきれない。靖国の国家管理の問題は、長くくすぶりました。その後は、内閣総理大臣の公式参拝を求める運動が続いていました。今も、色んな形で、公人が靖国参拝に行くわけです。

     次に、君が代の問題です。先ほど、国旗国歌に拳拳服膺(※8)できないという理由の中に、クリスチャンのように、宗教的な理由でそういうことができない、という方がいらっしゃると話しました。君が代の『君』は、天皇のことです。天皇とは、行政側に言わせると、憲法に象徴としてあるもので、何の問題もない、と言われます。

     これに対して、宗教者から見ると、君が代の君である天皇は、やはり宗教儀式を経てはじめて、天皇になるわけです。大嘗祭(※9)という、ややグロテスクな宗教的な秘儀を経て初めて、天皇としての礼儀、祖先から続いている天皇の力をもらう」

    (※8)拳拳服膺(けんけんふくよう):心に銘記し、常に忘れないでいること。(『大辞泉』より)

    (※9)大嘗祭(だいじょうさい):天皇が、即位ののち初めて新穀を天照大神をはじめ天神地祇(てんじんちぎ)に奉り、自らも食す祭りのことで、天皇一世一度の最大の祭り。「おおにえのまつり」「おおむべのまつり」とも呼び、践祚(せんそ)大嘗祭ともいう。毎年11月その年の新穀を神に捧げ、自らも食す新嘗(にいなめ)祭のことを、古く毎年の大嘗と称したのに対し、毎世の大嘗といった。この祭りを斎行することで、新しい天皇が真の天皇となると信仰されてきた。
    律令の整備とともに、その次第等について詳細に規定されたが、延喜の制で大祀とされたのは、この祭りのみである。(『日本大百科全書(小学館)』より)

    岩上「グロテスクというのは? 真床覆衾(※10)みたいなことですか?」

    澤藤「そういうことです。先帝の亡骸と一晩共寝をするということです。そうして初めて天皇は、天皇になる。そして、宮中での四方拝(※11)から始まって、秋季皇霊祭(※12)や春季皇霊祭など、天皇が天皇であるための祭祀、宗教儀式は、今も変わりなく、宮中の中で行われている。そういう天皇に寿ぐ君が代を歌うことはできない。つまり、『その身よ、永遠なれ』と言うことはできない。これが、宗教的な信念を持っている方の言い分だということも、ご理解いただきたいと思います」

    (※10)真床覆衾(まとこおうふすま):真床とは床のことで、覆衾とは寝る際に体に掛ける寝具のことをいう。日本書紀の天孫降臨神話や海幸山幸神話などで、誕生した皇子を包む具とされている。大嘗会においては、御殿の床に八重の畳を敷き、そこに神を寝かせ、天皇となるべき者も一緒に寝て、真床覆衾をかぶる。そして目覚めて起きた時には、天神の霊がその体内に入っており、人にして神なる天皇になっているとされる。(参考:三省堂『大辞林』、小淵繁利『日本古代史へのアプローチ』、逵日出典『八幡宮寺成立史の研究』)

    (※11)四方拝(しほうはい):1月1日の早朝に行われる皇室祭祀。天皇が清涼殿の東庭に出て、属星・天地四方・山陵を拝し、五穀豊穣・天下太平を祈る。明治以降は神嘉殿で、皇大神宮・豊受大神宮・四方の神々を拝することに改められた。(『大辞泉』より)

    (※12)皇霊祭(こうれいさい):旧制の国祭の一。毎年、春分・秋分の日に天皇みずから皇霊を祭る大祭。現在は天皇の私事として行われる。(『大辞泉』より)

    岩上「そうですね。キリスト教徒の方にとっては、生身の人間が、キリスト教と何の関係もない現人神であると言われても、それは受け入れられない。彼らは一神教ですから、キリスト教の神こそが神であるということ、それは譲れない話です。そこは、非常に厳しいもので、どんな場面であっても、その儀礼を強要することは、土台本来は無理のある話です」


    ===================================
    ◆ 憲法は、国民が国家の間違いを正すことを保障するもの
    ===================================

    澤藤「日本国憲法の大原則は、ともかく1人1人が、人格を持った人間として尊重されて、この世の中に共存できる、ということなのです。それを1つの宗教で、あるいは1つのイデオロギーで、統率するようなことは、絶対にあってはならない。これが憲法20条であり、19条の精神なわけです。思想、良心の自由ですね。もう少し遡れば、13条になるわけですけれども」

    岩上「幸福追求権ですか?」

    澤藤「ええ。13条は、個人の尊重、国家権力よりも個人が根源の存在なのだ、ということを言っている条文として、普通読まれます」

    ──────────────────────────────────
    【現行憲法】

    13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

    ──────────────────────────────────

    岩上「この幸福追求権というのは有名で、幸福追求権をもって行われている裁判はいろいろあると思います。自己決定を尊重するために、ということ。

     先日、オバマ米大統領が再選して、それにまつわって演説をしました(※13)。オバマ大統領は、ジェファーソン(※14)の独立宣言に触れて、この精神から我々は少しも揺らいでない、これを貫いていく、と。

     そこで言われているのは、個人としての尊重、生命、自由及び財産、そして幸福追求に関する権利であり、これらは、侵すことのできない個々人に与えられた独立した権利だ、と。まったく日本国憲法に書き込まれたことと同じことを言っています。

     これは、スタート点としては、フランスの人権宣言から来ている。そして、アメリカの独立宣言に書き込まれ、結果として、日本の憲法に書き込まれることになった重要な権利です。

     そして憲法は、1人1人が人格を持つ人間であって、それが尊重されるのだと、それが民権の一番重要な基礎をなす、としている。他方、自民党の改憲案は、国権をいかに強め、民権をその下に置くか、ということが、あらゆる条にあらわれている」

    (※13)2013年1月21日、オバマ米大統領は、2期目の就任演説の冒頭、以下のように述べた。
    「我々を米国人たらしめるのは、2世紀以上も前につくられた独立宣言に明記されている理念への忠誠です。

    『我々は、すべての人間は生まれながらにして平等であり、生命、自由、幸福の追求という侵すべからざる権利を神から与えられているのだという真理を自明なものとします』(「アメリカ独立宣言」より)

    今、我々はこの言葉の意味することと、我々が現在直面している現実との間に橋をかけようと、終わりのない旅を続けます」(「IBCパブリッシングHP http://www.ibcpub.co.jp/」より)

    (※14)ジェファーソン(Thomas Jefferson):1743年~1826年。米国の政治家。第3代大統領。在任1801~1809。独立運動に参加して、「独立宣言」を起草。国務長官・副大統領を経て、大統領となった。貿易の改善、ルイジアナ州の購入などの功績を残す。退任後には、バージニア大学を創立。(『大辞泉』より)

    澤藤「おっしゃる通りです。ジェファーソンの有名な言葉に、国家の健全性は国民の信頼によってではなく、これは『ジェラシー』によって保たれる、という言葉があります(※15)。『猜疑』と訳されることが多いですが、国民は国家を信頼しろ、ということではないのです。

     国家を信頼するということは、美徳でもなんでもない。国家は、過つものです。国家、あるいは、ときの政権は、『常に自分のやりたいように国民を操りたい』と考えます。そういう存在なのです。教育も、マスコミも操って、統制したい。そういう衝動を持っているものだ、と国民は考えなければいけない。

     だから、国家に対しては、あらゆる言論を通じて、そして最後は選挙という手段で、その間違いを正す。常に国家に対しては、『こいつは間違えるんじゃないか』と、猜疑の目を持つ。もし間違えたら、相手は大変な怪物なわけですから、間違えないように見守らなければならない。私は、それが日本国憲法、あるいは近代以降の憲法が想定している、国家に対するスタンスだと思っています」

    (※15)1776年、法律学全集3『憲法』pp.90に、トーマス・ジェファーソンが以下のように記述した。

    「われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある」



    岩上「国民は、国家に対して猜疑心を持つべきであり、また、持つのは当たり前のことだと。そして、国家性悪説と言ってもいいと思いますが、国家を放置しておけば、悪事をなすことがあり得る。国家の支配者たちは、私欲のために、さまざまな理屈をつけて人々を苦しめたり、あるいは操ろうとしたりすることがあり得る。

     だからこそ、国民が、国家の間違いを正していかなければならないし、またでき得る状態でなければいけない。そのためには、諸権利は保障されなくてはならない。出版、思想、信条、宗教、その他の権利は、必要な権利なのだと」


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    ◆ 日本は満州事変の愚を繰り返すつもりか
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    梓澤「ちょっとここで、触れておきたいことがあります。前回の鼎談の中で、世界人権宣言について、戦争の災厄を防ぐために、という意味で言ったのですが、国際連合憲章というのを改めて読み直してみると、その冒頭に、『我ら連合国の人民は、我らの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し』と書かれています。

     すなわち、2つの大戦を招いて、何千万という人たちの命が失われたが、1人1人の個人の価値を、国より上、それこそ至高の価値、最高の価値として見ることによってこそ、戦争というものを防ぐことができるのだと。そういう信念に貫かれて、国際連合というものを結成し、日本も、その中に入ったわけです。

     自民党の憲法改正草案が、もしこのままスッと通った場合、日本は満州事変の愚を繰り返すつもりなのでしょうか。国際連合のことを、当時は『国際連盟』と言っていました。満州事変のとき、日本は、国際連盟から脱退して、世界から孤立し、戦争への道を歩んでいった。今またそういう価値を選ぼうとしているのか」

    岩上「国連憲章と明らかに反するということですね」

    梓澤「はい。だから政治家は、今や立憲主義そのものを見直さなきゃいけない」

    岩上「西田昌司さんは、立憲主義じゃないということをはっきり言っていますし、片山さつきさんは、天賦人権説を否定すると言っている(※16)。この2人が、特異な考え方の持ち主であることは間違いないですけれども、彼らだけではなくて、自民党の中で、この憲法草案を作っていった方々、あるいは、そうした彼らの行動を支える思想家たちも、参集している。

     例えば、西田さんは西部邁さんの名前を出して、我が国の国柄に相応しくないから、憲法9条の考え方を含めて、これを除く、と言うわけです。日本の伝統文化に立脚していないものは、欧米からの押し付けだから、それを排除すると。

     私に言わせていただくと、立憲主義も天賦人権説も、日本の伝統文化や国柄に合わないという理由で捨てるのだったら、まず代議士のバッジを外せ、と思うのです。代議制民主主義は、元々この国の歴史にあったものじゃない。近年に欧米から輸入したものです。

     日本の伝統ではなく、欧米からの輸入だから、という理由で立憲主義を否定するなら、ご本人がバッジをまず外し、代議制民主主義のもとでの代議士であることをやめていただいて、それから、ちょんまげを結っていただき、車に乗るのもやめていただく。そして、原発はもちろん、つい最近入ったものですから、これもやめて、近代的な軍隊を持つなんていうことは考えないでいただきたい。

     そこまでやって、我が国の歴史、文化、伝統、国柄に合わないものは入れない、200年前に考えられたような、天賦人権説は入れないということを、堂々ご主張なさっていただきたいと思います」

    (※16)西田氏は、2012年7月28日放送のテレビ朝日「朝まで生テレビ」の中で、国民主権が憲法によるものではないという発言を行い、さらに、自身の動画チャンネル「週刊西田」の中で、以下のように語っている。

    「現在の憲法というのは、もともと占領中に作られた法的にも無効なものであるし、内容的にも、日本の伝統とか歴史的な規範とは別個の基準で作られたものであるから、これを憲法ということ自体おかしい。(略)

     憲法は法律以前の国の形、土台なんです。その土台が法律論でいってしまうとおかしい。土台を話す時には、そもそもモラルとか価値観の話で言わなきゃ駄目なんです。そこを法律論の中でガチガチにしてしまうから、本来憲法というのは国柄とか価値観とか、法律以前の形の集大成であるのにその集大成を語れなくなるんです」(2012年9月15日『週刊西田 一問一答「現憲法無効論を主流にできるのか?」』)

    また、片山さつき議員(自由民主党、衆議院)は、2012年12月7日、自身のツイッターで「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です」と書き込んだ。


    梓澤「これは、自民党の改憲草案という形で、政党の名前で発表されていますけれども、私は、いわゆる保守、保守革新と分ければ、保守の人たちの中にも、この価値観を共有しない人は潜在的にいらっしゃると思うのです」

    岩上「潜在的にどころか、いっぱいいると思います」

    梓澤「例えば、慶応大学教授の小林節さんという方も、もともとは改憲を主張されていたのですが、この自民党の改憲の流れにはついていけない、とおっしゃっています(※17)。

     こうしたこともあって、この機会に、自民党改憲草案の持っている根本的な考え方について、本当にこれでいいのかと。現在、いわゆる防衛論理、安全保障論理だけで意見が分かれちゃっているけども、この機会に、ぜひ1回根本に戻って議論したいと思います」

    (※17)小林教授は、改憲派の論客として知られ、これまで数多くのメディアに登場しているが、立憲主義に基づかない改憲には反対の立場をとっている。

    小林教授は、憲法は主権者である国民が国の権力者に指示するためのマニュアルであるとした上で、自民党改憲草案については「権力側から国民へ支持する条項を入れようとする。憲法の何たるかがわかっていない連中に憲法改正を云々させるわけにはいかない」と述べている(2012年12月21日『日経ビジネスオンライン』)。

     また、小林教授は国民に対して憲法の教育を行うことを重要視しており、「自民党の改憲マニアたちは、時間が来たら、国民投票法を力任せに押し切ったと同じで、憲法改正──改悪ですけどね──を提案してきます。だからこそ、うんと論争して、国民教育をしながら、かつ彼らのおかしな改憲案を直せるなら直してあげたほうがいい。直せないなら、それがいかにひどいものかということを、戦略的に国民に知らせなきゃいけない」と語っている(2007年12月26日『マガジン9』)。


    ===================================
    ◆ 日本国憲法は、勝ち取った民権か、与えられた民権か
    ===================================

    岩上「1月11日付のロサンゼルス・タイムズが、自民党改憲草案の危険性について、記事を書きました。これは、非常に長い論文で、改憲草案の中身について、9条の問題だけではなく、基本的人権の制約だとか、それから言論・出版の自由、思想信条の自由に対して、ものすごく厳しい評価を下していて、しかもそれが、自民党憲法草案の第何条にある、と細かく書かれている。

     また、記事の中で、ロサンゼルス・タイムズは、全世界の人権を守る団体は結集せよ、と呼びかけている。日本の憲法は危険で、日本はファシズム国家に向かおうとしている、と。そういうアジテーションするほどまでの、長文の文章が掲載されています。我々は、全文を訳して読んで、ちょっとびっくりしました(※18)」

    (※18)以下、2013年1月11日付のロサンゼルス・タイムズ紙に掲載された「A militarized Japan?」と題された記事をIWJが仮訳したものを以下、一部抜粋する。
    (元記事:http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-ackerman-japan-constitution-20130111,0,7592874.story

    「日本の安倍晋三新総理が、日本の有名な平和条項である憲法第9条を改正する計画があることを発表した。(略)しかしこの変更は、安倍政権が企んでいる抜本的な憲法改正の一部でしかない。なぜなら自民党改憲草案では、軍事の非常事態のときは国会に法的強制力を与えるとしているからだ。また、徴兵制の禁止条項を取り除くような変更もある」

     こう述べて、ロサンゼルス・タイムズ紙は、憲法9条の改正だけでなく、基本的人権まで制約しようとしている点を指摘し、厳しく批判を加えている。

    「さらに悪いことに、改憲草案には『国民は、これ(憲法が保障する自由及び権利)を濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない』と書かれている。これが現行憲法の穏健な(基本的人権の)制限条項に取って代わられる」

     また同紙は、自民党改憲案の中の基本的人権の制約だけでなく、表現の自由への制約にも注意を促し、自民党は全体主義的で軍国主義的な日本を作ろうとしていると警鐘を鳴らしている。

    「さらに基本的な政治的自由もリスクにさらされる。改憲草案の第21条(表現の自由や集会の自由)に新設された条項では、『公益及び公の秩序を害することを目的』として行使してはならないと書かれている。

     これらの改正は、集団的自由権に対するシンボリックな主張よりも非常に重大である。自民党は全体主義的、軍事主義的な日本を作ろうとしているのだ。果たして成功するだろうか」

     今号で取り上げた96条の改正についても、同紙論文はいち早く批判の目を向けている。注目すべきは、そのあとに続くくだりである。世界中の人権団体に対して、自民党の改憲草案に反対するため結集せよ、と呼びかけているのだ。安直な自民党の改憲草案に対する海外のまなざしはきわめて厳しいものがある、ということを私たちは知る必要がある。

    「憲法改正には厳格な手続きがある。はじめに、国会の両議院の3分の2の賛成がなければならない。そして次に、国民投票にかけることになる。安倍総理は、この(3分の2の賛成という)圧倒的多数の必要条項も変えようとしている。(略)

     1つだけはっきりしていることがある。世界中の人権団体は、自民党の憲法改正草案に反対する世論を結集すべきである。世界の政府に関しては、今はまだ様子見の時期だ。安倍政権への強い非難は、国粋的な反動をもたらすだけである。

    日本の憲法は、アメリカの軍事占領下で公布されたものであり、現在の世代が基本的な目的の理解に努めるのが当然である。外交上の課題は、日本国民の主権を尊重しつつ、現政府に権力を集中させないことである。

     オバマ大統領は、日本政府が日米同盟における軍事的役割をより強く担おうとすることを拒否すべきである。アメリカの切迫した財政状況を見る限り、長期的に太平洋地域の関係を再構築することには意味があるかもしれない。しかし、今はその時ではない。オバマ大統領は事態が収拾するのを待ち、日本国民が自由民主主義に則っていくのか、それとも放棄するのかを見定めるべきである」


    澤藤「まったく同感です。一番ベーシックなところにあるのは、人類の英知が積み重ねた近代立憲主義です。つまり、人権が一番大切で、国家というのは危険なものだから、これを制約しなければならない、というもの。しかし、私たちが『これは当たり前のものだ』と考えていたのを、『これは、日本の伝統文化、歴史に合わないものだ』として排除する。

     例えば、『天賦人権論というのは、妄説、間違った説であって、そういうものは取らない』と非常にはっきり言っている。つまり、日本というのは、天皇を戴く国家であり、いわば、山内先生(※19)の言葉ですと、結局、憲法の上に天皇を置いてしまっているのが、自民党改憲草案ではないか。

     つまり、人類の英知の積み重ねだと思ったものを否定して、天皇制中心にした大変狭い国の考え方、それで人権まで否定をしてしまう。また山内さんの言葉を借りますけれども、これが自民党のDNAなのです。私は、保守全体がDNAだとは思わないのですけれども、この改憲案は、おそらく安倍自民党の本音を語っているものとして、非常に参考になる。

     それから、自民党のホームページにはQ&Aも全文出ていますので、是非お読みいただきたい。これが、いかにグローバルスタンダードからかけ離れたものであるかということを、ぜひじっくり見ていただきたい(http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf)」

    (※19)山内敏弘(やまうちとしひろ):龍谷大学教授で、憲法学の専門家。澤藤弁護士は、自身のブログ(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/sawafuji/index.cgi)の中で、山内教授の言葉を紹介している。それによると、山内教授は自民党の改憲草案を、「自民党の本質、自民党本来のDNAが露骨に出た改憲草案」として、「国民主権、人権尊重、平和主義という憲法の基本価値を、いずれも歪め、換骨奪胎するもの」と厳しく批判している。

    岩上「戦後、日本が国際社会の中で、長い時間をかけて積み上げた地位というものがあります。それはやはり、先進欧米諸国と肩を並べる近代民主主義国家のひとつであり、平和主義で、基本的人権が守られる社会だというふうに見なされており、一定の尊敬を集めていることです。自民党改憲草案は、その地位を捨てること、先進民主主義国家の隊列からの落伍を意味すると思うのです。それは、本当に危険なことです」

    梓澤「日本は、外交上の基本方針として、安全保障常任理事会入りを考えているわけですよ。ならば、その基本的な哲学──国連憲章や、世界人権宣言の中にある共通理念──を否定してしまったら、一体どうなるのか。

     天皇を戴く国家というのは、自民党改憲草案の前文の一番初めにあります。すなわち、『日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって』という部分。日本国改憲草案の1行目にそれを打ち出して、それが全体を貫かれている。

    安倍首相のおじいさんにあたる岸信介さんが、1960年の安保闘争のときに、『国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる』と有名な言葉を残しています。

    岸さんは、巣鴨で2年7カ月間、戦犯として幽囚生活を送りました。それが、出てきた途端に、自主憲法制定を掲げます。その流れがずっと続いて、安倍首相に至っている。しかもそれが、何というか、ある条文を合理的なものに変えようという議論ではなくて、明治憲法に戻ろうというような議論、これはとても違うのではないかなと」

    岩上「今ここに、一番普遍的な教科書だと言われる、芦部信喜先生という方が書かれた『憲法 第五版』があります。ここでは、日本憲法史における明治憲法の特色として、反民主的要素と民主的要素が混在している、と述べられています。以下、読み上げます。

    『明治憲法は、立憲主義憲法とは言うものの、神権主義的な君主制の色彩がきわめて強い憲法だった。

    (一)反民主的要素

     まず、主権が天皇に存することを基本原理とし、この天皇の地位は、天皇の祖先である神の意志に基づくものとされた。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(一条)とは、この天皇主権の原理を明示したものである。また、天皇は、神の子孫として神格を有するとされ、「神聖ニシテ侵スヘカラス」(三条)と定められた。さらに、天皇は、「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」(四条)する者、すなわち、立法・司法・行政などすべての国の作用を究極的に掌握し統括する権限を有する者とされた。』(芦部信喜『憲法 第五版』pp.18)

     さらには、軍事ファシズムのトップであり、同時に、神聖宗教国家のトップでもあるという状態だった。国民には主権や権利はなく、天皇こそがこの国の主人であって、また歴史を通じてそうであったと。

     これは、歴史の捏造だと思うのです。これまでの歴史の中で、日本が天皇中心の国家として、天皇をここまで神格化し、そして国のすべてを統べる存在として君臨したことが、日本の有史以来果たしてあったのか。

     国家神道は昔からあるものだと思っている人が多いですが、このプロトタイプを思いついたのは、おそらく水戸学の会沢正志斎(※20)です。『国体』という言葉は、彼の造語です。彼が著した『新論』の中に、これから攘夷などをやるときに、国家と一神教とを結びつけた、キリスト教に対抗し得るような、強力な宗教を作り上げなければならない、と書かれています。作り上げるということは、それまでなかった、ということですよ。

     それを作り上げて、国の中心に据えて、それが国家を支配するような、そういう形式を作るべきだと言っている。これはまさに、国家神道の萌芽みたいなものです。これは幕末に、すごく読まれているのです。

     注意しなくてはいけないことは、水戸学、それから勤皇(※21)の人たちにも言えることは、あのときに新しい近代国家を作るということと、同時に朝鮮半島を取りに行こうという征韓論、これらはもう共通認識だったということです。

     だから、そのときすでに、強大な国家を作り、帝国主義をとる列強の真似をして、すぐ近隣の朝鮮、あるいは台湾を取りに行くと言っていた。そこから始めようと。その挙げ句、更に中国まで行こう、と近世のうちに言っていた。

     これは大変なことだと思うのです。こういう国家を作り上げるのは、元に戻るというだけではなく、どのような侵略を考えているのかということまで、本当は論じなくてはいけないような話です」

    (※20)会沢正志斎(あいざわせいしさい):1782年~1863年。江戸後期の思想家で水戸藩士。

    10歳のときに藤田幽谷(ふじたゆうこく)の私塾・青藍舎へ入門。その後、「大日本史」を編纂するための修史局・彰考館に入り書写生となる。

     1824年、イギリスの捕鯨船員12人が水戸藩領常陸大津浜に上陸したとき、会沢は筆談役として事情聴取にあたった。この事件を契機に、翌年、水戸藩8代藩主・徳川斉脩(なりのぶ)への上呈を目的として、『新論』を著した。

     『新論』は、国体(上・中・下)、形勢、虜情、守禦(しゅぎょ)、長計の5論7篇からなり、西欧諸国からの侵略という国家的危機に対処するために、日本の国体に基づく改革を論じている。ここでは、尊王思想と攘夷思想を結合させた尊王攘夷思想を提示するが、危険思想と見なされ、出版することが許されなかった。しかし、その内容は筆写されて全国に伝わり、幕末に起こる尊王攘夷運動の聖典となった。

     1829年、斉脩の死後、会沢や藤田東湖らは斉脩の弟である徳川斉昭(なりあき)を擁立し、斉昭が9代藩主に就任する。

     1853年、ペリーが来航。58年の修好通商条約調印後、井伊直弼の非をつく戊午(ぼご)の密勅が水戸藩に下るが、会沢はこれを幕府に返納すべきと主張。60年に桜田門外の変が起こったときも、これを反逆行為だと断じ、批判する声明を発表した。

     また会沢は、精神の虚無を埋めるためには日本人の信仰を統一させることが必要だと考えており、その思想や著作は、国家神道の形成に影響したとされている。水戸史学会会長を務めた名越時正(なごやときまさ)氏は、会沢の『新論』や『江湖負喧(こうこふけん)』などを紹介しながら、「会沢正志斎の神道論策は、古典とわが国古代の祭政一致の制や律令制度の中に、神道を中心とした日本本来の姿を探求し、それが儒教倫理とも合致する大道である」と述べている(名越時正『会沢正志斎の神道論策』http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/s10-1.pdf)。

    (※21)勤王/勤皇(きんのう):天子のために忠義を尽くすこと。特に江戸末期、佐幕派に対し、天皇親政を実現しようとした思潮。また、その政治運動。尊王。(『大辞泉』より)


    澤藤「中江兆民(※22)が、民権に2つあると言っています。それは、私の言葉で翻訳すれば、勝ち取った民権と、与えられた民権です。勝ち取った民権というのは、十全のもので、与えられた民権というのは、そもそも与えられっぱなしで円満完全だということはない。大日本帝国憲法は、与えられた民権であったわけです」

    (※22)中江兆民(なかえちょうみん):1847年~1901年。思想家。フランスに留学し、帰国後仏学塾を開設。「東洋自由新聞」を創刊し、主筆として明治政府を攻撃し、自由民権運動の理論的指導者となった。ルソーの「民約論」を翻訳。著「三酔人経綸問答」「一年有半」など。(『大辞泉』より)


    岩上「しかも、不十分だったわけですね」

    澤藤「はい。一方の日本国憲法は、円満な、本当の意味で勝ちとったかどうかはわかりません。けれども、法的な意味で勝ちとった、つまり国民主権が勝ちとった民権なのです。基本的人権、あるいは参政権ができた。私は、これらを普遍的な原理だと思います。

     つまりこれは、君主や神、国家権力から与えられた民権ではない。天賦人権論という言葉を使うかどうかはともかく、最初からあった円満な人権を前提にするところから議論が始まる、というのがいわば公理なのです。自民党は、これを明確に否定する。

     だから、そういう意味では、彼らは与えられた人権論からしか出発できない。私は、米国はそんなに好きな国ではないですが、米国は人権外交などと言って、中国やミャンマー、あるいは北朝鮮などに対して、お前たちは非文明国で、人権をちゃんと擁護してないと批判をします。それで、日本も『そうだそうだ』と、米国と一緒になって批判しています。

     そうすると、例えばミャンマーなんかは『人権というのは決して普遍的なものではない。それぞれの国柄や歴史的な段階に応じて、多面的なものなんだ』という。それに対して、米国や日本は『いや、人権というのは、普遍的なものだ。そんなローカルな人権論なんか認めない』という。私は、それはそれなりに正しい言い方だと思います。しかし自民党案は、そのローカルな人権論に戻ろうとしている。それでいいのかと」

    岩上「これはもう早い話が、北朝鮮や、いま澤藤先生がおっしゃったミャンマーなどの国々と、『我々は同じだ』と言っているということですね。そのほかにも色々な国々があると思いますけれども、普遍性より特殊性を強調する国、特殊な国柄を主張する国、イスラム原理主義国家もそうであるかも知れませんが、自民党案は『我々は近代民主主義国家とは違って、普遍性よりも特殊性が強調される国家なんだ』と主張するようなことですね」

    澤藤「はい。自民党憲法草案のQ&Aを見て驚きましたけど、やっぱり『和を以って尊しとなす』というのが大事なものだ、ということを堂々と言っているわけです。これが同等者間だったら、道徳として成立しますよ。しかし、国家権力と国民との間で『和を以って尊しとなす』というのはあり得ない。これは、権力を持つ者に好都合なイデオロギーを吹き込もうという以外のなにものでもない」

    梓澤「21条に入りましょう」

    (前編・了)
    (文責・岩上安身/協力・テキストスタッフ長尾、大西雅明)

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