【日本が戦場になったその事実】「沖縄戦を学ぶ3」 失われた青春時代 孤児院で3歳妹亡くし どうにもならなかった 長堂トヨさん(82)下
2013.12.17 Tue 09:23 -edit-
<未来に伝える沖縄戦>3
失われた青春時代
長堂トヨさん(82)下
孤児院で3歳妹亡くし どうにもならなかった
2011.09.25 琉球新報
《艦砲射撃で両親やきょうだいを失った長堂トヨさんはアメリカ軍に保護されました》
アメリカーに連れられて、百名収容所から佐敷に行った。その翌日、アメリカーと2世(移民先で生まれた県系人の子ども)が来て、親のいない子どもたちの面倒見るように言われた。たちまち、あちこちから子どもたちが連れて来られた。1、2週間たつと、みんなコザの孤児院に連れて行かれた。
みんなやせ細って、何も食べていない子どもたちですから、ミルクを飲んでも吐いてしまう子もいた。栄養不足の子どもは病院に連れて行くんですけど、毎日、何人かの子どもが死ぬんです。衛生係のおじさんたちが担架担いで死体を取りに来るんです。連れて行く所が墓といっても大きな穴を掘ってあってね。ここにこぼしていくんです。
私の妹は3歳だったんだけど、やせ細って、骨と皮になっておなかだけ大きく出て。ある日、戻って来たら、妹がいないので病院に行ってみたんですよ。妹はテントの中ではなくてテントの外に寝かされていた。目をつぶって、小さなウジがいっぱいしているんですよ。ハエがたかっているんです。言葉では言い表せません。泣けて泣けて。どうすることもできない。
ちょっと離れた所で座って泣いていたんです。そしたら、病院から担架を担いで来るおじさんがいて。「つるこじゃないかな」と胸がはち切れそうで。おじさんたちが穴に死体を投げ落として帰った後に、穴の中を見てみた。着ている服を見て「ああ、つるこなんだな」と分かったんです。でもどうすることもできないのよね。
せっかく捕虜とられてコザまで行ったのに、あそこで亡くなって。あのとき私がもう少し分かっていたらどうにかできただろうにねと思う。
私なんか目の前で家族がみんなやられているから思い出すだけでもう、涙が出てくる。本当に話もできないのよ。想像するだけでも泣けて。子どもたちが生まれて大きくなって寝顔見ても、自分の弟や妹はこのぐらいのときに死んだんだねと思って涙が出た。「生きていたらどのくらいなるかな」と今でも思うんですよ。
孤児院ではいろんな人にお世話になった。みなさんどうしていらっしゃるかね。できるものならもう1回集まって話をしてみたいと思います。
<聞いて学んだ>
自分ができることから/新垣楓さん(豊見城中3年)
(長堂さんの家で)艦砲の破片を手にした時、言葉では言い表せないような「戦争の重み」を感じました。どれだけの人が傷つき、悲しみ、そして苦しんで亡くなっていったのか。戦争といえばこれまでテレビの映画や授業での調べ学習などが中心でしたが、あの実物の破片の重みはどんな平和学習よりも心に突き刺さるものがありました。
辺野古への米軍基地移設問題や八重山の教科書問題、近隣諸国との領土問題などどれも避けては通れない大きな問題ですが、私はまず自分ができることから取り組んでいきたい。
過去を学び経験生かす/外間奈沙さん(豊見城中3年)
これまで、主に慰霊の日や終戦記念日にしか戦争や平和について考えてこなかった私にとって「戦争は、あなたたちがどんなに想像してもしきれないくらい悲惨なものだった」というトヨさんの言葉がすごくつらく、そして重く心にのしかかりました。私たち世代はもちろん戦争を経験していません。勉強することでしか補えません。だからこそ、トヨさんのような方を通して過去を学ぶことで、そして過去の経験を生かすことで、今、私たち社会が抱えている問題解決の糸口が見えてくるのだと思います。
<メモ>コザ孤児院
戦争で親を亡くした子どもたちを収容するために、1945年5月、米軍が設置した民間人収容所キャンプ・コザ内(現在の沖縄市住吉、嘉間良)に置かれました。当初200人規模の定員を予定していましたが、7月下旬には約800人を数え、そのうち175人は病院に入院していました。名簿はなく、孤児院に収容されていた子どもたちの正式な数は分かっていません。当時、県内には10カ所の孤児院があり、コザ孤児院は最大規模でした。49年に各地の孤児院や養老施設を統合し、那覇市首里に「沖縄厚生園」が設立されたのに伴い、閉院されました。
「ウチナーヤマトグチ解説」by ジョージ
アメリカー = アメリカ兵(人)
いっぱいしている = 一杯いる
捕虜とられて = 捕虜になって
どのくらいなるかな = どんな風になっているかな
原発 放射能 食品汚染 TPP 沖縄戦
失われた青春時代
長堂トヨさん(82)下
孤児院で3歳妹亡くし どうにもならなかった
2011.09.25 琉球新報
《艦砲射撃で両親やきょうだいを失った長堂トヨさんはアメリカ軍に保護されました》
アメリカーに連れられて、百名収容所から佐敷に行った。その翌日、アメリカーと2世(移民先で生まれた県系人の子ども)が来て、親のいない子どもたちの面倒見るように言われた。たちまち、あちこちから子どもたちが連れて来られた。1、2週間たつと、みんなコザの孤児院に連れて行かれた。
みんなやせ細って、何も食べていない子どもたちですから、ミルクを飲んでも吐いてしまう子もいた。栄養不足の子どもは病院に連れて行くんですけど、毎日、何人かの子どもが死ぬんです。衛生係のおじさんたちが担架担いで死体を取りに来るんです。連れて行く所が墓といっても大きな穴を掘ってあってね。ここにこぼしていくんです。
私の妹は3歳だったんだけど、やせ細って、骨と皮になっておなかだけ大きく出て。ある日、戻って来たら、妹がいないので病院に行ってみたんですよ。妹はテントの中ではなくてテントの外に寝かされていた。目をつぶって、小さなウジがいっぱいしているんですよ。ハエがたかっているんです。言葉では言い表せません。泣けて泣けて。どうすることもできない。
ちょっと離れた所で座って泣いていたんです。そしたら、病院から担架を担いで来るおじさんがいて。「つるこじゃないかな」と胸がはち切れそうで。おじさんたちが穴に死体を投げ落として帰った後に、穴の中を見てみた。着ている服を見て「ああ、つるこなんだな」と分かったんです。でもどうすることもできないのよね。
せっかく捕虜とられてコザまで行ったのに、あそこで亡くなって。あのとき私がもう少し分かっていたらどうにかできただろうにねと思う。
私なんか目の前で家族がみんなやられているから思い出すだけでもう、涙が出てくる。本当に話もできないのよ。想像するだけでも泣けて。子どもたちが生まれて大きくなって寝顔見ても、自分の弟や妹はこのぐらいのときに死んだんだねと思って涙が出た。「生きていたらどのくらいなるかな」と今でも思うんですよ。
孤児院ではいろんな人にお世話になった。みなさんどうしていらっしゃるかね。できるものならもう1回集まって話をしてみたいと思います。
<聞いて学んだ>
自分ができることから/新垣楓さん(豊見城中3年)
(長堂さんの家で)艦砲の破片を手にした時、言葉では言い表せないような「戦争の重み」を感じました。どれだけの人が傷つき、悲しみ、そして苦しんで亡くなっていったのか。戦争といえばこれまでテレビの映画や授業での調べ学習などが中心でしたが、あの実物の破片の重みはどんな平和学習よりも心に突き刺さるものがありました。
辺野古への米軍基地移設問題や八重山の教科書問題、近隣諸国との領土問題などどれも避けては通れない大きな問題ですが、私はまず自分ができることから取り組んでいきたい。
過去を学び経験生かす/外間奈沙さん(豊見城中3年)
これまで、主に慰霊の日や終戦記念日にしか戦争や平和について考えてこなかった私にとって「戦争は、あなたたちがどんなに想像してもしきれないくらい悲惨なものだった」というトヨさんの言葉がすごくつらく、そして重く心にのしかかりました。私たち世代はもちろん戦争を経験していません。勉強することでしか補えません。だからこそ、トヨさんのような方を通して過去を学ぶことで、そして過去の経験を生かすことで、今、私たち社会が抱えている問題解決の糸口が見えてくるのだと思います。
<メモ>コザ孤児院
戦争で親を亡くした子どもたちを収容するために、1945年5月、米軍が設置した民間人収容所キャンプ・コザ内(現在の沖縄市住吉、嘉間良)に置かれました。当初200人規模の定員を予定していましたが、7月下旬には約800人を数え、そのうち175人は病院に入院していました。名簿はなく、孤児院に収容されていた子どもたちの正式な数は分かっていません。当時、県内には10カ所の孤児院があり、コザ孤児院は最大規模でした。49年に各地の孤児院や養老施設を統合し、那覇市首里に「沖縄厚生園」が設立されたのに伴い、閉院されました。
「ウチナーヤマトグチ解説」by ジョージ
アメリカー = アメリカ兵(人)
いっぱいしている = 一杯いる
捕虜とられて = 捕虜になって
どのくらいなるかな = どんな風になっているかな
原発 放射能 食品汚染 TPP 沖縄戦
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