11« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.»01

    原発問題 -The Truth is Out There-

      : 

    東電福島原発事故の真実 放射能汚染の真実 食物汚染の真実 正しい情報を求めて

    スポンサーサイト 

    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。
    スポンサー広告  /  tb: --  /  cm: --  /  △top

    IWJ特報第119号「旧日本軍による隠されたジェノサイドの真実」(その1) 

    第119号
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
               岩上安身のIWJ特報!
          旧日本軍による隠されたジェノサイドの真実
          ~北海道大学名誉教授・井上勝生氏インタビュー(その1)
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    (IWJ転載許可済み)

     12月4日に発足された国家安全保障会議(日本版NSC)、12月6日に可決された特定秘密保護法、そして来年の通常国会に上程を検討していると言われている「共謀罪」の創設を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案。日本が「戦争のできる国」になるための法的整備が着々と進んでいる。さらに、「積極的平和主義」を掲げる安倍政権は、集団的自衛権の行使の容認を狙っている。

     法が整うと、現実はまたたく間にかたちを成していく。

    12月23日に開かれた第一回目の国家安全保障会議で決定されたのは、南スーダンで国連平和維持活動(PKO)を展開する国連部隊に銃弾一万発を無償で提供するという方針だった。今回は「緊急で人道的な対応」だからよい、ということだ。

     武器輸出を禁じる三原則は、いとも簡単に例外を生み出してしまった。あまりに曖昧な理由による決定それ自体が、なし崩し的に戦争に進もうとする日本政府の方向性を明らかにしている。

     そして安倍総理は12月26日、靖国神社を電撃的に参拝した。中国・韓国のみならず、東アジアの緊張増大を懸念する米国までもが、この安倍総理の行動に反発している。安倍政権の「暴走」は、明らかに日本の孤立を招きつつある。


     日本が「戦争のできる国」になる。このことは私たちに何をもたらすのか。それを考えるには、とぼしい想像力をはたらかせるよりも、史実に目を向けた方がいいかもしれない。

     我々、戦後世代が、教科書で習ってきた「歴史」には、戦前・戦中世代が受けた「皇民化教育」ほど偏ったものではないにせよ、それでもなお、事実を直視してきたとは言いがたいバイアスがかかっている。近い過去なのに、実は明治維新以降の歴史でも、いまだ未解明の闇が残されていたりする。

     現在の日本のありようにまで続く近代日本史にかかった「神話」のベールの最たるものは、「輝ける明治」という「神話」であろう。1931年(昭和6年)の満州事変以降、日本は泥沼の日中戦争に深入りし、あげく米英とも開戦して破滅した。軍部が暴走した「昭和の悲惨」と対置して、「それに比べて明治は偉大だった」と懐旧する構図が、すっかり定着してしまっている。

     『坂の上の雲』を書いた国民的大作家・司馬遼太郎氏が描く世界、いわゆる「司馬史観」の構図、すなわち「栄光の明治」を美化した歴史観である。その中核に位置するのが、日清・日露両戦争での日本の勝利である。

     ちなみに、新聞が戦争を煽り、国民を焚きつけ、部数を延ばして儲け、軍部と財界とメディアの「共犯関係」が生まれ、成立したのもこの両戦争からである。

     12月23日、NHKは、天皇陛下80歳の誕生日のお言葉の中から、「平和と民主主義を守る日本国憲法」を擁護するくだりを削除して放送するという「暴挙」を平然と行ったが、これが改憲への地ならしであり、「戦争のできる国」への着実な一歩であることは言うまでもない。

     今上天皇の意思など踏みにじってでも、戦争へ向かうための世論操作をやれるだけやってしまおう、という凶暴で卑劣な意志が読みとれる。戦前・戦中と同様、「戦後」のはずの今も、メディアが戦争の「共犯者」となりつつある。

     話を戻そう。

     日清戦争における主戦場はどこであったか。日本国内ではむろんない。清国領でもない。主たる戦場は第三国の韓国・朝鮮だった。そして犠牲者の数も最も多かったのは朝鮮人である。日本人よりも、清国人よりも、朝鮮人が最も数多
    く犠牲になったのだ。

     「司馬史観」では朝鮮は、大国・日本と大国である清・ロシアに挟まれた「地理的存在」とされた。そして、こうした認識は、今もなお、多くの日本人の深層を規定し続けている。

     日清戦争のときに、日本軍が朝鮮半島で行ったジェノサイドについて、ご存知の方はほとんどいない。

     ジェノサイドは常に歴史の表面から隠されてきた。むしろ、証人も証拠も一切残さないということがジェノサイドの本質ですらある。つまり、それは人々の抹消であるというだけではなく、その出来事そのものを歴史から抹消するという究極の隠蔽行為なのだ。

     それでも、あるとき唐突に、その物的証拠が私たちの目の前に現れることがある。1995年に北海道大学で見つかった髑髏(どくろ)とは、まさにそのような証拠だった。もの言わぬ髑髏が物語るミステリー。そこに添えられていた書き付けを手掛かりに、歴史学者・井上勝生氏が地道に点と点をつないでいったとき、それは凄まじいジェノサイドのかたちを描き出すこととなった。

     1894年の「東学党の乱」は、一般的には農民の内乱として考えられ、私たちは教科書でもそう教えられてきたが、実際には、日本軍が朝鮮半島で展開したジェノサイドだったのである。

    ───────────────────────────

    ◆インタビューのポイント◆

    1 北海道大学で発見された「髑髏」の謎

     日本が朝鮮を保護国にした翌年の1906年、札幌農学校の卒業生・佐藤政次郎が韓国に渡っていた。朝鮮半島植民地化の第一歩とも言える、韓国での綿花栽培プロジェクトのためである。

     これは、日本のものよりも品質のすぐれていた韓国の綿花栽培のノウハウを利用し、アメリカ陸地綿を大規模に栽培しようという事業だった。このプロジェクトを率いていたのが、のちに「平民宰相」として知られる原敬であることは、ほとんど知られていない事実である。

     このプロジェクトのため韓国に渡っていた佐藤政次郎は、現地で偶然みつけた髑髏を「採集」し、北海道に持ち帰った。それが、1995年に北海道大学で発見された髑髏である。髑髏に添えられていた文書には、それが東学党蜂起の首謀者のものであると書かれていた。

    2 日本の教科書に記載されている「東学党」は存在しない

     髑髏「採集」の12年前の1894年、「東学党の乱」が起こった。しかし実は、「東学党」という党は存在しない。東学とはひとつの思想の名前であり、韓国の民主化運動の原点とも言われる平等思想のことを指す。

     1998年、当時の金大中大統領が来日して国会で演説した際、アジアにおける民主主義の伝統として、東学の存在に言及した。しかし、日本の教科書は依然として、「東学党の乱」と記述している。

    3 歴史から抹消された1895年の抗日闘争

     日清戦争のきっかけとなった1894年のいわゆる「甲午農民戦争(東学党の乱)」の他に、1895年にかけて起った大規模な抗日闘争があった。この抗日闘争を、日本軍は徹底的に弾圧し、虐殺のかぎりを尽くした。

     しかしその事実は、教科書はもちろん、明治27年に参謀本部が編纂した「日清戦史」全8巻からも削除されている。

    4 日本軍による王宮(景福宮)占拠事件とは何か

     日本軍は日清戦争を、清から韓国を独立させるための義戦であると主張していた。ところが、日清戦争のきっかけとなった日本軍による王宮(景福宮)占拠事件を検証してみると、実際は日本による韓国植民地化のための戦争だったことがわかる。

     1895年、日本軍は王宮に深夜に忍び込み、正門を爆破。さらに後日、反日・親露姿勢を明確にしていた朝鮮の明成皇后(閔妃)を暗殺した。しかし、日本軍によるこの王宮占拠事件は歴史から葬りさられている。

    5 東学農民戦争におけるジェノサイドの真実

     東学農民戦争の実態は、日本軍が大本営の指令を受けて組織的に行った、韓国の農民に対する大虐殺だった。この大虐殺の中心を担ったのは、第一軍を率いていた山県有朋を中心とする長州閥によって編成された4000人の軍隊だった。それは、ほとんど武器を持たない農民を、スナイドル銃という新型のライフル銃でなぎ倒していく壮絶な「掃滅」戦であり、しかも計画的に遂行されたものだった。

     その証拠に、兵站総監だった川上操六は「(農民を)向後、ことごとく殺戮せよ」という電報を送っている。このジェノサイドの史実は、当時も、そして今もなお、徹底的に隠され続けている。

    6 日本のジェノサイドを意識的に見逃した欧米諸国

     日清戦争当時、国際法はすでに確立されており、日本もその内容を把握していた。つまり、一般の農民の虐殺は、明らかにやってはいけないこととして認識されていたはずである。

     ところが、日本軍は東学農民の「掃滅」を行い、また、欧米諸国はそれを結果として黙認した。東学農民が繰り広げた、帝国の支配に対する抵抗の運動は欧米にとっても潰さなければならない対象としてみなされていたからである。

    7 捏造された靖国神社の記録

     東学農民軍との戦いで死亡した、日本軍第三中隊の杉野寅吉という人物がいる。第三中隊隊長が現地から家族にあてた手紙には、杉野氏はヨンサン(連山)で死亡したと記載されている。しかし井上氏が靖国神社の忠魂史を調査すると、杉野氏はヨンサンではなく、ソウルで清国軍と戦った際に死亡したと記載されていた。

     このことからも、靖国神社の忠魂史を編纂した陸軍参謀本部が、朝鮮半島での戦闘を清国に対するものに限定し、東学農民軍に対する虐殺を隠蔽しようとしていた意図をうかがうことができる。

    8 ジェノサイドを画策した中心には長州閥

     東学農民軍との戦闘を指揮した日本軍のリーダーである南小四郎は、幕末期、禁門の変や戊辰戦争、函館戦争に参加した、長州藩の維新の志士だった。同じく長州出身の伊藤博文、井上馨と深いつながりがあったため、東学農民軍を殺戮するという秘密作戦を遂行するために、総理大臣だった伊藤と公使だった井上によって呼び出され、指揮官に任命された。

     伊藤、井上、南と、朝鮮半島における日本軍の虐殺には、長州閥が深く関与している。なお、「ことごとく、殺戮せよ」と命じた川上操六(のちの参謀総長、陸軍大将)は、薩摩出身である。

    9 日清戦争における最多の「戦死者」は朝鮮人

     日清戦争における最多の「戦死者」は、日本人でも清国人でもなく、朝鮮人だった。日本と清の死傷者がそれぞれ約2万人だったのに対し、現在の研究によれば、少なくとも、3万人から5万人の朝鮮人が死亡したと言われている。特に東学農民軍が逃げ込んだ珍島では、日本軍による凄惨な討伐戦が行われ、少なくとも数百人の朝鮮人が日本軍により処刑され、晒し首にされたことが分かっている。

    10 日韓併合を正当化するため、計画的な虐殺の記録を参謀本部が削除していた

     日本は、1910年の日韓併合を正当化するために、東学農民軍に対する計画的な虐殺の作戦をなかったことにしようとした。参謀本部が作成した戦史には、東学農民軍に対する作戦計画に関する記述が一行も存在していない。

    11 「アジアなりの近代化」の芽を摘んだ日本の帝国主義

     金大中がかつて「東学とはアジアなりの近代化だ」と言ったように、日本に強要されなくても、朝鮮には独自の近代化を模索する動きがあった。そのことは、明治維新後に日本に編入されたアイヌや沖縄においても同様である。

     特に、アイヌやサハリンのニブフ族による自治運動は根強く、当時水産局の官僚を務めていた内村鑑三は、倭人とアイヌとの共同漁業権を認めるべきだと主張していた。しかし、日本は、欧米列強の「代理」として、朝鮮や沖縄、アイ
    ヌに対し、西欧的な近代化を押しつけていった。

    ───────────────────────────

     南スーダンのPKOの国連部隊に対して、日本から銃弾一万発が提供されたが、その具体的な提供先は韓国軍である。日本政府は、韓国隊部隊長から切迫して要請されたと言っているが、韓国政府は「万が一に備えた予備」だったとして日本政府の主張を否定した。それどころか、 韓国政府は、日本政府が韓国軍への銃弾提供を過剰に広報しているとして、強い遺憾の意を示し、結局、銃弾の返還を申し出た。

     日韓両政府の言い分が噛み合わず、ぎくしゃくし続けるのはなぜなのか。

     銃弾の提供には、日本が「戦争のできる国」へと近づいていく意志が端的に表れている。武器輸出を自ら禁じてきた武器輸出三原則は、この銃弾の提供から崩れていくだろう。このことを、韓国の一般の人々はどう感じているのか、想像してみる必要がある。

     1998年に当時の金大中韓国大統領が、「東学党の乱」について言及している。つまり、日本が行ったジェノサイドについて、韓国の人たちは今もしっかりと覚えているということだ。

     ところが、日本では、「東学党の乱」が日本軍によるジェノサイドだったということは全く知られていない。戦史のなかからも事実が抹消されてしまっているからだ。両国の認識に大きなギャップがある。

     日本が「戦争のできる国」への変貌の意志を示すとき、韓国の人たちは否が応でも過去のジェノサイドやその後の植民地支配について思い出し、反発や懸念を強める。それをそ知らぬ顔をして、日本政府は、あたかも善意であるかのように韓国に銃弾を提供しようとする。

     日本と韓国の双方に、より多くの軍事的負担を求めているのは米国だが、「主役」は表舞台に顔をあらわさない。日本は「あげたくもない銃弾」を提供し、韓国は「もらいたくもない相手」から受け取っているので、日韓両国の認識の溝が埋まるはずもない。

     韓国政府は韓国国民に向けて「感謝はしない」という姿勢をとり、その態度を見て日本ではまた「韓国人は礼も言えないのか」などと反感をつのらせる。一般の日本人の多くが基本的な史実について、「知らない」のだから、ねじれた両国民の感情の落とし所が見つからない。

     日本と韓国は、このままでは今後もっと大きな齟齬を生み出すことになるだろう。ボタンのかけ違いをただすには、「栄光の明治」の時代、その舞台裏で、日本軍は韓国人に対して何をしでかしていたのか、まずはその史実を知る必要がある。この不幸で無残な「事件」を解きほぐすことなくして、近代における日韓の最初の接点を理解することはできない。

    ================================
    ◆北海道大学で発見された髑髏◆
    ================================

    ・岩上安身のインタビューに応じる井上勝生氏
    (写真URL:http://bit.ly/18RFN6V

    岩上安身(以下、岩上)「私は今、札幌に来ております。とても涼しく、風に湿気がはらんんでいなくて、とてもさわやかです。

     そんなさわやかな札幌に来ていますが、今日は『東学農民戦争と日本~もう一つの日清戦争』(※1)という、さわやかとはとうてい言いがたい、大変血生臭い日本の近現代史の闇について、北海道大学名誉教授の井上勝生先生にお話をおうかがいしたいと思っております。先生よろしくお願いいたします」

    井上勝生氏(以下、井上・敬称略)「はじめまして」

    岩上「はじめまして。このご本は、中塚明先生との共著なのですが、中塚先生には以前、ご自宅までうかがってロングインタビューをさせていただいたことがあります(※2)。

     このご本、実は中塚先生から送っていただいたんですね。その中にお手紙が入っておりまして、『これが私の最後の本になる』と言うから、『先生、それじゃ、すぐにラストインタビューを撮らせてください』と言ったら、『くたびれたから、北海道の井上先生にとにかく話を聞いてくれ』とおっしゃられました」

    井上「わかりました」

    岩上「この本の冒頭に記載されていますが、1995年7月、北海道大学文学部で、髑髏(どくろ)が発見されたとあります。これはどういうことだったのでしょうか。まずはこの事件からお話をうかがいたいと思います」

    ・1995年7月、北海道大学で発見された髑髏
    (『東学農民戦争と日本』より)(写真URL:http://bit.ly/1czf9Py

    井上「北海道大学に古河講堂(※3)という建物があります。正門の近くにあって、クラーク博士の像と向かい合うかたちで建っています。北大を観光で訪れる方は、必ずと言ってよいほど立ち寄る場所です。

     古河講堂1階の東の端の研究室に、段ボール箱に入って、古新聞に包まれたかたちで、頭骨(とうこつ)が6体あったのです。そのうち3体は、『ウィルタ民族』(※4)の遺骨だという付箋が入っていました。その一番上に入っていた1体に、東学党(※5)の首魁(しゅかい)の骨だという書き入れがあったのです」

    --------------------------------------------------------------
    (※1)中塚明・井上勝生・朴孟洙著『東学農民戦争と日本~もう一つの日清戦争』(高文研、2013.06.12) 【URL】http://amzn.to/164s8mm

     出版社による紹介文「日清戦争は、日本と清国(中国)との戦争だ。それなのに、最大の「戦死者」を出したのは、勝った日本でも、敗れた中国でもなく、朝鮮だった! 交戦国ではない朝鮮が、どうして最大の「戦死者」(3~5万人)を出したのか? 朝鮮王宮(皇居)を占領した日本軍に対し、朝鮮の農民三百万が竹やりで蜂起し、それを日本軍が“せん滅”した。長い間、歴史の闇に葬られて、韓国でも近年ようやく明らかにされてきたこの驚くべき事実を、日韓の研究者が共同で取り組んだ成果を、読みやすい形で提示する!」

    (※2)歪められた歴史 日本軍・日本政府による朝鮮半島侵略の驚くべき史実~岩上安身による奈良女子大学名誉教授・中塚明氏インタビュー【URL】http://bit.ly/VWPL0t

    (※3)古河講堂:1909年、北海道大学の前身である東北帝国大学農科大学の敷地内に建てられた。足尾銅山鉱毒事件で社会的非難を浴びていた古河鉱業が、内務大臣で古河鉱業の顧問を務めていた原敬のすすめにより、社会貢献事業の一貫として、講堂の建設費約14万円を寄付した。国の重要文化財として登録されている。【URL】http://bit.ly/hi5p7y

    (※4)ウィルタ民族:南樺太を中心に居住している少数民族。トナカイの牧畜や漁労を主な生業とする。アイヌ民族からは「オロッコ」と呼ばれた。第二次世界大戦以前に日本国籍を取得し、日本の敗戦とともに南樺太から北海道網走市へ移住した者もいた。2002年の国勢調査によると、346人がオホーツク海沿岸の樺太北部および南部のポロナイク近郊に居住している。【URL】http://bit.ly/fwlxlD

    (※5)東学党:李氏朝鮮の宗教家である崔済愚(チェ・ジェウ)が創始した教団。儒教、仏教、民間信仰を統合した思想を説いた。儒教にもとづく厳格な身分制度をとっていた李朝と対立、多くの農民を率いて蜂起し、1894年、東学党の乱(甲午農民戦争)を起こした。この反乱に日本と中国(清朝)が介入し、日清戦争へと発展する。【URL】http://bit.ly/qnGTU2
    ----------------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆髑髏はどこから来たのか?◆
    ================================

    井上「この頭骨には次のような文書が添えられていました。その全文は以下の通りです。

     髑髏(明治三十九年九月二十日 珍島島に於て)

    右は明治二十七年韓国東学党蜂起するあり、全羅何道珍島は彼れが最も猖獗(悪いことがはびこること)を極めたる所なりしが、これが平定に帰するに際し、その主唱者数百名を殺し、死屍道に横はるに至り、首魁(首謀者)者はこれを梟(さらし首)にせるが、右はそのひとつなりしが、該島視察に際し採集せるものなり。 佐藤政次郎」

    岩上「『珍島』(※6)とは、演歌歌手の天童よしみさんが唄っている珍島物語の珍島ですか?」

    井上「そうです。沖ノ島ぐらいの大きさの島ですけども、そこで討伐戦があり、数百人が殺されたと幹部が言っています。その中で、首魁たちが晒し首になった。その一つがこれだと言うのです。実際に晒し首になったのは、 おそらくもっと何体かあるでしょうね」

    岩上「普通は戦争があって処刑されても、遺体は埋葬されているでしょうから、墓をあばきでもしなければ、このような髑髏を持ってくるということはできないと思います。また、髑髏を気楽に持ってくるということの神経もちょっとよくわからない。何か事情があるんだと思うのですが、そもそも死体はどのような状態にあったんでしょうか」

    井上「珍島で討伐戦があって、日本軍と、日本軍に指揮された韓国政府軍が入っていきました。日本軍は一中隊の分隊ですけども。それが入って処刑をしたのは1895(明治28)年1月です。日清戦争が始まって2年目ですよね。

    遺骨に書き付けが入っていて、『これを採集した』と書いてあります。採集という言葉を使っています。それが1906(明治39)年のことです。日本が朝鮮を保護国にした翌年です。

     これは日本の農民や官吏が朝鮮半島に殺到した時期でしたが、ちょうどその時に採集されたものだというのです。数百人が処刑され、晒し首になりました。珍島だけではなく、全羅道もそうです。全羅道のあたりの埋葬法は特別なのです。草墳(そうふん)と言いまして、遺体はしばらく、松の木を敷いた上に曝す(さらす)のです。そこに草を掛けて、だいたい普通は3年間置く。

     そうすると白骨になります。それを洗骨して、そして、別の墓に埋葬するのです。全羅道(チョルラド)、木浦(モッポ)、光州(クァンジュ)(※7)にそういう風習がありますが、元々は、東南アジアのほうにそういう草墳の風習がありました。

     それを洗骨するわけですよね。だから死体を非常に丁重に葬る一つの方法なのですけれども、実際に骸骨(がいこつ)が、そういうふうに、ずうっと、山の斜面に曝されるという状態があるんですね。髑髏は多分、そういう状態にあったものの一つを持って来たのだと思います」

    岩上「単に放置されたのとは違うんですね」

    井上「そうだと思いますね。それで、それを、一つを持ってきたということだと思います」

    --------------------------------------------------------------------
    (※6)珍島(ちんど):珍島は韓国の西南海岸の端にある、韓国で三番目に大きい島である。陸地と珍島とのあいだには鳴梁海峡があり、珍島大橋が掛かっている。東学農民軍が追いつめられて、最後の一人まで殺されたのが珍島である。(『東学農民戦争と日本』pp.155-156)

    (※7)全羅道(チョルラド)、木浦(モッポ)、光州(クァンジュ)はいずれも韓国西南地方の地名。
    --------------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆髑髏は「採集」された◆
    ================================

    岩上「頭骨を持って来た日本人から見れば、そこに放置されて打ち捨ててあるものだったのでしょう。貝殻とか化石だったら『採集』と言うので、それと同じように『採集』と言ったのでしょうか。それにしても、骨には尊厳というものがあるのではないでしょうか」

    井上「もちろん尊厳はあります。『採集』といっているのは、単に珍しいものだからで、それで持ってきたということのようです。持ってきた人は、調査の結果、札幌農学校(※8)の卒業生だと分かりました。 名前は佐藤政次郎(まさじろう)といいます。

     署名もしてありました。遺骨自身にも『佐藤政次郎氏より』という名前が書いてあります。その名前を調べると札幌農学校の第19期生です。当時、札幌農学校で『殖民学(植民学とも)』という学問がされていました。戦前は形質人類学(※9) で人種論が非常に盛んでした。頭蓋骨については、ヨーロッパで人種の優劣あるいは人種の進化論があります」

    岩上「系統樹(けいとうじゅ)とか」

    井上「ええ、骨の形をいろいろ分析した学問で、頭蓋学(※10)という分野もありました。新渡戸稲造(にとべ いなぞう)(※11)は頭蓋学に非常に関心がありましたし、全集の中に、ヨーロッパの教授とアジアの頭蓋学について話し合ったという記載があります。

     北海道大学でも、アイヌ民族の頭骨を、形質人類学、つまり進化論的な見地から、児玉作左衛門(さくざえもん)(※12)という解剖学の教授が1000体以上集めていました。しかし、そうした進化論が学問として全くデタラメだったということで、論文がほとんど紙くずになったんですね。

     戦後、意味がなくなったものですから、1000何体のアイヌの方々の遺骨がそのまま医学部に放置されていて、それがアイヌの方々との紛争やトラブルの元になりました。

     東大や京大といった日本中の大学で同様のことがありました。この札幌の中でも札幌医大の解剖学も、しばらく前に問題になりました。そうしたアイヌの協会とのトラブルが、必ずしもうまく折り合いがついていなかったのです」

    岩上「まだ折り合いがつかないんですか。純粋に学問のためと思ってやりだした遺骨の採集だとしても、その扱い方が、その人物や遺体や遺骨の尊厳を踏みにじっているという批判もあったそうですね。それから、研究の目的も、政治的にニュートラルだったらともかく、人種の優劣の研究となっていたということなんですね」

    井上「おっしゃる通りです」

    岩上「人種の優劣の証明のためという邪(よこしま)な動機で学問をする人も一部にいたということですよね」

    井上「ええ、そうですね」

    岩上「形質人類学って、戦後も続いていますよね。ですから、その人たちの中の全部が今もそうだとは言えないとは思いますけれども、特に、戦前・戦中には、人種の優劣をつけるという動機があったわけですね」

    井上「ええ。戦前は、その動機の方がむしろ主流だったということですよね」


    岩上「アイヌの人は一時期、コーカソイドではないか、白人種ではないかと言われ、常に、極端に日本人と違う民族ではないか、という見方がありました。海外からやってきた先生方もそのように思っていたようです」

    井上「そうですね、おっしゃる通りですね」

    岩上「骨に興味があったんでしょうね。骨の研究の一環として収集したのですね」

    井上「採集という言葉を使ったのは、やはり、そういう理由からでしょうね」

    ------------------------------------------------------
    (※8) 札幌農学校:現在の北海道大学の前身。1875(明治8)年、最初の屯田兵198戸が琴似に入植したのにともない、東京・芝の増上寺にあった開拓使仮学校を札幌に移設。1876(明治9)年8月14日、札幌農学校と改称して開校式を挙行した。教頭には、マサチューセッツ農科大学学長のウィリアムy・スミス・クラーク博士が招かれた。(北海道大学ホームページ【URL】http://bit.ly/1i0KZqz

    (※9)形質人類学:自然人類学とも呼ばれる。人類やチンパンジー、ゴリラなどが、ヒト科の共通祖先からどのようにして進化してきたのかを解明する学問。発掘された化石を対象に、歯や骨の形態から生活環境や社会構造などを明らかにする。

     国立科学博物館人類史研究グループ長の篠田謙一氏は、8月15日に行われた岩上安身によるインタビューの中で、6万年前にアフリカを起源として人類が世界中に広まっていった過程を、形質人類学の観点から説明した。(2013/08/15「6万年前に同じ能力を持った人々がアフリカを出て、世界に広がった」──日本人はどこから来たか。DNAが語る系譜 ~岩上安身による篠田謙一氏インタビュー【URL】http://bit.ly/1dMClIc

    (※10)頭蓋学:頭蓋骨の形状を測定し、人種や犯罪気質にもとづいて人間を分類するために19世紀に行われた研究。骨相学とも呼ばれる。20世紀以降は衰退していった。(wikipedia【URL】http://bit.ly/xfYnVv

    (※11)新渡戸稲造:1862年~1933年。農学者、教育者、倫理哲学者。札幌農学校出身である。アメリカとドイツへの留学後、札幌農学校の教授となり、農学関係科目や語学科目を受け持った。第一次終戦後の1920年に国際連盟が発足されたとき、事務局次長となった。(十和田市立新渡戸記念館ホームページより【URL】http://bit.ly/1bvHamE

    (※12)児玉作左衛門:1895(明治28)年-1970(昭和45)年。北海道大学名誉教授。専門は解剖学と人類学。1930年代、学術的研究の名の下にアイヌ民族の墓地を掘り起こし、1000体以上のアイヌ人骨を収集した。児玉の死後、北海
    道アイヌ協会(ウタリ協会)が北海道大学に対して人骨の慰霊と追悼を行うことを求め、1984年、北海道大学医学部構内に「アイヌ納骨堂」が建立された。以後毎年、慰霊式「イチャルパ」が行われている。(北海道大学ホームページ【URL】http://bit.ly/HIWkgY
    ----------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆韓国から、髑髏返還の要望◆
    ================================

    岩上「しかし、このような頭蓋骨が北海道大学から出てきてびっくりしたわけですね。そして、これはそのまま放置はできないということで、井上先生が調査委員会の委員長になられたということですね」

    井上「いや、私は委員長ではなく、一委員です。委員長は学部長です」

    岩上「『東学農民戦争と日本』の共著者となった朴孟洙(パク・メンス)さんと井上先生はとても親しくされていますね。朴さんはこの問題を知って、非常に義憤に駆られて、北海道大学に頭骨の奪還に行かれたとのことでした。

     そして、朴さんが団交抗議文を持っていったときに、相手をしてくれたのが井上先生だったと本の中に書いています。委員会の中でも、ほとんど井上先生とだけ交渉したと書いてありました。韓国の人たちの当時の反応と怒りというのは、どのようなものだったのでしょうか(※13)」

    井上「新聞に載りました。書き付けには『採集』と書かれていましたし、形質人類学という観点があったからでしょうけども、わりときちんと採集の年月日も記されていたんですね。それが新聞に載りまして、その直後に韓国側から北海道大学文学部に接触がありました(※14)。

     最初に連絡をしてきたのが全羅道の方です。全羅道は金大中(キム・デジュン)の地盤ですが、金大中さんと民主化運動を一緒にやられていた韓勝憲(ハン・スンホン)という弁護士の方から連絡をいただいたのです。

     AP通信の記者が仲立ちをしてくださり、民間レベルで返還を進めるようにしてほしいと、最初に言われました。

     東学の遺骨ということで、東学を継承している天道教(※15)の本部からも接触がありました。天道教本部の一番の中心は全羅道にもあります。韓勝憲弁護士と天道教の両方から接触があったんですね。そこから返還の動きがはじまっていきました。

     接触自体は非常に礼儀にかなったもので、学部長のほうへFAXが来ました。形式的には何の問題もないものでした」

    ----------------------------------------------------------------
    (※13)当時の様子を朴孟洙氏は次のように記している。

     「1996年の2月4日から3日間、私は韓弁護士と一緒に北大を訪問し、文学部長と会い、遺骨の返還と真相究明を改めて要求しました。その日の夜、私はある先生と『運命の出会い』をします。北大側の真相調査委員会のメンバーの一人である井上勝生先生でした。

     先生から、人骨が見つかった直後からの北大側の調査経過について詳細な説明を受けました。その調査内容の説明は、衝撃の連続でした。書き付けに書かれていた佐藤政次郎という行跡を調査して、三人の『佐藤』が分かったこと、その三人とも日本の朝鮮植民地支配と深い関わりを持っていたこと、また日本の外交史料館や防衛庁(現防衛省)の防衛研究所図書館に日本軍による農民軍弾圧関係の資料がたくさん保存されていることを知りました。

     私はこれまで進めてきた研究の限界を切実に感じました。以後、北大(主に井上先生)と事業会(韓弁護士)の間で数十回にわたるやり取りがあり、96年5月31日、農民軍リーダーの遺骨は韓国に奉還されました」(朴孟洙「東学農民革命と現代韓国」『東学農民戦争と日本~もう一つの日清戦争』所収)

    (※14)「北海道大学の古河記念講堂で人骨6体発見 李朝末期の抗日英雄、朴仲辰の頭骨も?」(毎日新聞1996年4月14日) 以下、記事を全文引用する。

     <北海道大の古河記念講堂(札幌市)で、北方少数民族ウィルタや朝鮮人など6体の頭がい骨が段ボール箱に入れられているのが見つかり、1体は李朝末期の甲午(こうご)農民戦争の指導者として日本軍などに処刑された、地元の伝説的英雄、朴仲辰の可能性があることが分かった。調査に当たっていた北大人骨問題調査委員会(委員長・灰谷慶三文学部長)が13日、中間報告書で発表した。

     頭がい骨の一つには、「佐藤政次郎」の名前で説明書が添付され、甲午農民戦争の12年後の1906年、韓国南西端の珍島を視察した際、処刑された農民軍の「首魁(しゅかい)」の一人らしい頭がい骨を持ち帰ったと記してあった。

     調査委は、現地に出向くなどして説明書の信ぴょう性を調べた。

     これまでに佐藤政次郎が、朝鮮半島での綿栽培事業のために、日本政府が派遣した技師で、同年に珍島を視察。珍島での聞き取り調査では、農民軍の「首魁」は言い伝えでは3人で、中心人物は朴氏だったことが判明。頭がい骨の歯の鑑定から年齢は30~40歳代で朴仲辰の死亡年齢46歳と一致した。

     灰谷学部長は「骨が農民軍の指導者の一人だったことは確かだ。

     鑑定では性別も不明で、科学的に特定はできないが朴仲辰の可能性もある」とした>

    (※15)天道教:東学を継承する朝鮮の宗教。1898年、東学の第2代教主・崔時亨(さいじこう)が東学党の乱(甲午農民戦争)に敗北して処刑された後、東学の実力者である李容九(りようきゅう)らは日露戦争に際して日本軍に協力的な姿勢を示すようになった。第3代教主の孫秉熙(そんへいき)は李らの親日派と対立を深め、1905年、東学を天道教に改称して親日派を追放した。(コトバンク【URL】http://bit.ly/16VANv6
    ------------------------------------------------------

    ================================
    ◆髑髏の書き付けに書いていることは本当だった◆
    ================================

    岩上「韓国側から北海道大学に返還してくれと要請があったわけですね。しかし、話は簡単にはまとまらなかったとうかがっています。まず、その頭蓋骨の由来を知らないといけないですよね」

    井上「そうなのです。遺骨に差し込まれてた書き付けには『珍島で』と書いてありますけども、数百人が処刑されて、そのうち晒し首になったのが首魁(首謀者)でした。『首唱者』と書かれているのは幹部のことでしょう。幹部数百人が珍島で処刑されたということでしょう。そして、本当の首魁は数人で、おそらくその数人が晒し首になったのです。

     私に一番最初に接触してきたのは在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)でした。それから、朝鮮総連の有名な研究者の琴秉洞(クム・ビョンドン)という現代史料などを出している方です。

     他にも、在日朝鮮人の姜徳相(カン・ドクサン)(※16)という滋賀県立大学の先生とお会いしました。東京の麻布十番の領事館に『在日韓人歴史資料館』をつくった方です」

    岩上「麻布十番の韓国大使館に行けば、『在日韓人歴史資料館』を見れるのですか」

    井上「ええ、見れます。在日韓人の方々が日本に渡ってきた頃の資料や、強制連行の資料や、いろいろな署名・押捺を巡る様々な運動などが全部そこに保存してあります。生活史の資料もあります。

     そこの館長になられたのが、カン・ドクサンさんです。その方などに接触しまして、まず、クム・ビョンドンさんなどが北海道大学文学部に正式な申し入れをされて、できる限りの調査をしてほしいとおっしゃったのです。

     できる限りの調査をして、そして原状回復をしてほしいとおっしゃいました。原状回復ということは、元々の子孫のところへ返してほしいということです。そして、文学部として、北大としての謝罪の意を表してほしいということを要求されたんですね。私は、調査委員会の一人です。私は日本史、特に明治維新が専門ですから、一番適任でした」

    岩上「明治維新の研究者だからですね」

     井上「はい。日清戦争、東学農民戦争(甲午農民戦争)に関することですから。私の専門とは20年ぐらいは離れていますけども、まあ、一番近いということで。

     韓国側の団体は、1年ぐらい調査して、それから返還してほしいと言いました。それで、私は、自分の専門ではないけれども、1年間その分野を全力を尽くして調査しようと覚悟を決めました。クム・ビョンドン先生自身も調査をされました。それで、クム・ビョンドン先生が、佐藤政次郎について発見されました」

    岩上「クム・ビョンドン先生ですね」

    井上「はい、クム・ビョンドンさんです。たくさん本を書いてらっしゃる、朝鮮大学校の先生です。講師をされていました。日本でも名の通った有名な研究者です。調査は難しいだろうけども、できるだけやってほしいと言われました。それで、まず、この書き付けの真偽を調べました。信憑性があるかどうかです。それを調べるのから始めて、できる限り調査しました。

     こういう書き付けですから、その信憑性がどこまで裏付けられるかという問題があります。相当難しいと思っていたのですが、韓国の研究者も含めいろいろな研究者が協力してくださいました。特に珍島の研究者、郷土史を専門とする方々です。

     そして、驚くべきことですけれども、この書き付けの信憑性がきちんと証明されたのです。ここに書かれていることが間違いのない正確なことであることが分かりました。私と一緒に調査したのが、ハングルができる教育学部の研究者でした。朝鮮の植民地時代の教育史を研究している若い研究者の方です。

     私たち2人は珍島へ行って、珍島の郷土史研究者の方とお話をして、いろいろ聴き取りをしました。そして、そのあと、ソウル大学のキム・ヨンドク(金容徳)さんという近代史の先生や、経済史のクォン・テオク(権泰檍)先生にもお話をうかがいました。クォン・テオクさんは綿業史の研究者です。

     資料を提供した結果、この書き付けは、全く正確だということがきちんと証明されました。まず、それを中間報告書で報告しました。1年弱で報告書が出せたのです。その結果、韓国側のハン・スンホン弁護士から連絡がありました。韓国では、いろいろな団体が奉還委員会を作りました」

    岩上「奉還とは骨をお返しするということですね」

    井上「それで、きちんとした奉還ができるようになったのです」

    岩上「慰霊式をやって、北大から抗日指導者遺骨を返還したと、北海道新聞が報じていますね」

    井上「はい、北海道新聞ですね。

     その真偽が証明されたときのことに話を戻しますが、私と協力してくれた若い研究者の二人はソウル大学のキュジャンカク(奎章閣=図書館のこと)へ行き、そこで書き付けに書いてあることが全く正確だということを発見しました。

     キュジャンカクには、李朝時代のいろいろな資料が一番多く入っています。資料はマイクロフィルムにされており、全部見ました」

    ----------------------------------------------------------------
    (※16)姜徳相(カン・ドクサン):滋賀県立大学名誉教授。専門は朝鮮近現代史。著書に『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社、2003.09)、『朝鮮人学徒出陣~もうひとつのわだつみのこえ』(岩波書店、1997.04)、『カラー版 錦絵の中の朝鮮と中国─幕末・明治の日本人のまなざし』(岩波書店、2007.10)他多数。
    ----------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆髑髏の「採集」者はなぜ韓国にいたのか?◆
    ================================

    井上「佐藤政次郎という人物については北大で調べました。札幌農学校の第19期の卒業生に、佐藤政次郎という方がいたことが分かりました。1908年の19期の同窓会名簿に佐藤政次郎という名前があります」

    岩上「北大は、当時は札幌農学校ですね」

    井上「はい。同窓会名簿に佐藤政次郎さんという名前があって、韓国統監府技師、韓国統監府勧業模範場木浦市場内と書かれていました。これは木浦(モッポ)のことです。木浦といいますのは、先ほどの地図で見ますと、ここが珍島で、こちらの港が木浦です。

     当時、開港場(※17)になっており、日本人がたくさんいました。日本人は木浦の開港場から入っていき、そこに日本人の居留地ができました。今でも日本人の家の跡が残っています。木浦にある領事館が、日本の領事館があった場所です。そこに、佐藤政次郎さんという卒業生の方がいらっしゃったのです」

    井上「ここに三四と一九と書いてありますが、これは明治34年の卒業生すなわち19期生という意味です。19期生というのは札幌農学校では『花の19期生』と言ってもいいと思います。有島武郎が19期生でした。ですから、卒業式の写真が残っていました。有島武郎さんと佐藤政次郎さんが一緒に写っている写真が実際にあります。

     佐藤政次郎さんが木浦にいらっしゃって木浦市場で何をされていたのかと言うと、そのことは札幌農学校、統監府の記録に書いていました。韓国の木綿のためでした」

    ------------------------------------------------------
    (※17)条約や法令によって外国船に対して開港された、外国貿易のための港。

    (大辞林 第三版より【URL】http://bit.ly/1gcmc1o
    ------------------------------------------------------

    ================================
    ◆植民地化への第一歩 綿花栽培◆
    ================================

    井上「当時、日本で紡績業が一番盛んで、繊維業界は大阪などを中心としていました。日本の綿花は繊維が短くて、太くて、到底インド木棉とかアメリカ木棉に対抗できない品質なのですが、韓国の木棉は、繊維が長く、細く、アメリカの陸地棉やインド棉に近いのです」

    岩上「韓国の木綿は品質が高いのですね」

    井上「はい。それで、韓国木棉がずっと使われ続けてきたのです。そこに日本の繊維業界が・・・」

    岩上「目をつけたんですか」

    井上「はい。そして、木浦から輸入していたのです。ただ、韓国木棉は、『繰り綿』(くりわた)(※18)にすると、収穫量がアメリカ棉よりも少ないんですよね。繰り綿率が少ないっていいますけども。繰り綿にするときに、収穫量が少ないと効率が良くないのです。

     そのため、大阪紡績資本家たちが作った大日本綿花栽培協会は、韓国で、綿の種をアメリカ陸地棉に替えて、アメリカ陸地棉を広めようという事業を始めました。その代表になるのが原敬(たかし)です」

    岩上「岩手出身の政友会の原敬ですか」

    井上「はい、首相となった原敬(※19)です。平民宰相(へいみんさいしょう)です」

    岩上「へぇ、そんなところに原敬が出てくるのですね」

    井上「ええ。原敬さんは、札幌農学校で長く校長を務めていた佐藤昌介さんと同じ岩手の花巻出身なのです。それで繋がりがあるんですね。札幌農学校が東北帝国大学に昇格できたのは、原敬さんの尽力なんです」

    岩上「ほう、そうなんですか」

    井上「そうです」

    岩上「それはまた思いがけないことです」

    井上「原さんと佐藤昌介さんは、南部の作人館という藩校(はんこう)で同窓生なのです。原さんは綿花栽培事業を展開しました。韓国では綿花生産が非常に盛んであり、北のほうのファンヘド(黄海道)、それからピョンアンド(平安道)のほうで、綿花栽培をやっています。

     南のほうでは、全羅道、チンジュ(晋州)というキョンサンド(慶尚道)のほう、チョルラド(全羅道)で綿花栽培が盛んで、羅州(ナジュ)というところを中心にして、非常に綿花栽培が盛んなのです。

     珍島は、今は私たちは農業と漁業が融合した牧歌的なところと言いますけれども、当時の技師の報告書にありますように、綿花栽培が非常に盛んで、至るところで綿花栽培が行われていました。綿花試験場があったのです。

     それで、大日本綿花栽培協会は、木浦でアメリカ陸地棉の試験場を10ヶ所作りました。この試験場で陸地棉の栽培をまず広めて、その原料を全部日本、大阪へと持って行こうという計画を立てました」

    ===================================
    ◆帝国の経営に欠かせなかった綿花産業◆
    ===================================

    岩上「髑髏の話からは脱線してしまうかもしれませんが、大日本帝国は、かなり強引に脅しを掛けて、朝鮮半島を開国させたのですよね。米国を筆頭に列強が日本に対して恫喝しながら不平等条約の締結を迫ったのと同じようなことを、日本が今度は韓国に対してしたわけですね。

     韓国で優秀なものを作っていることが分かり、さらに品質向上させようとしてアメリカの綿を作らせようとしたという。でも、なぜ日本は国内でやらなかったのですか。日本国内でやればいいのにと思うのですが」

    井上「日本の綿花は品質的に機械織りに適さないのです。陸地棉に関しては、当時、アメリカ陸地棉の品質が良かったのです。繊維が長く細かったため、非常に上質な薄手木綿ができました。

     日本の綿花は、中国綿花もそうですけども、繊維が太いですから、厚手木綿になってしまうのです。中国の『土布』(どふ)は、非常に上等な、輸出向けの木綿織りには適さないものです。

    中国は、土布でしばらくイギリスの綿花輸入に対抗して、抵抗しますね。相当長い間、土布は根強く残り、イギリス木棉を受け付けなかった。イギリスの資本主義は当時綿業が中心でしたから、イギリスは苦戦しました」

    岩上「イギリスは中国に対して、イギリス木綿を買わせようとしたんですか」

    井上「ええ、買わせようとしたのですね。大英帝国のエンジンは木綿です。ところが、中国の土布は家内工業で作りますから、非常に安くできました。また、農業と兼業できました。なかなかイギリスの機械木綿が浸透せず、イギリスはしばらくアテが外れた状態になりました。ミッチェル報告書という有名な報告書が出ました。

     日本で栽培されたのも、同じような厚手木綿なんですね。機械織りが始まったとき、日本ではまずインド棉で作りました。

     もちろん日本国内でも各所でアメリカ陸地棉の栽培試験をやりました。ところが、アメリカ陸地棉は、綿花が実るのが9月・10月なのです。しかし、日本は意外と9月・10月に雨が多い気候なのです」

    岩上「はい、そうですね、台風がありますし」

    井上「ええ。そうですね。台風に加えて、日本は意外と雨が多いのです」

    岩上「収穫時に雨が降るとよくないのですね」

    井上「ダメなんです。さらに、木棉の栽培法自体が、干鰯(ほしか)や金肥を入れるという非常に高価な栽培法なのです。日本ではアメリカやインドの安い木綿に対抗できるような木綿を栽培できる農業的な基盤がないのです。

     だから、朝鮮で栽培するということになりました。朝鮮は、9月・10月はほとんど晴天で、雨はほとんど降りません」

    岩上「では、気候的にもいいのですね」

    井上「非常にいいのです」

    岩上「木綿を植えるのに適しているところだったのですね。北海道であれば9月・10月に雨は降らないかもしれないですけど、でも寒いでしょうね」

    井上「ダメでしょうね。水はけのいいところで、収穫期に雨の非常に少ないところが必要なのです」

    岩上「木綿は当時の戦略的な商品ですね。今で言えば自動車のようなものですね。それで外貨を稼げるわけですから。だから、なんとしても、綿という高価な商品作物を作りたかったということですね。

     国内では難しい、それでは、朝鮮を植民地化してしまおうという考えですね。当時まだ植民地にまではなっていませんけれど、朝鮮の土地を自由に思うままに使わせてもらって、その土地で高価な商品作物を作り、輸出し、そして富を稼ごうと考えた。そして、そのため、言ってみれば、お上の命まで受けての話で、佐藤政次郎さんは現地に行っていたということなんですね」

    井上「そうです。おっしゃる通りです」

    岩上「しかも、それは時期的には、日清戦争の終わったあとですね」

    井上「そうです。ちょうど、綿花栽培協会ができたのが1904年ぐらいです。原敬とか大阪紡績資本とか農商務省が関わってきます。農商務省の高官たちも参加しますし、紡績資本家や帝国議会の議員はほとんど参加します。そういう人たちが参加して、大日本綿花栽培協会というものができるのですね」

    岩上「儲けたかったのですね」

    井上「そうです」

    岩上「綿花というと、今で言うと、あまり迫力のある話ではないように聞こえます。少なくとも大規模に興(おこ)した巨大産業や戦略物資であったというふうには到底思えないのですけど。

     しかし、当時としては、大変な産業で、戦略的な商品であり、かつ植民地を持って、帝国を経営していく基盤となるような、重大で、きわめて政治的な商品だったということですね」

    井上「ええ。今の資本主義を見ると違いますよね。当時、台湾などでは砂糖業がありました。当時、砂糖は戦略的商品で、非常に中核的産業でした。

     木棉については、日本では当時アメリカ陸地棉を輸入していました。木綿は日本の輸入の第1位だったのです。それがアメリカ陸地棉だったため、結局、インドやアメリカの景気の動向に日本の紡績業が翻弄されることになりました。そのため、なんとか自分の経済の手の届く範囲で栽培したいと考えたのです」

    岩上「おまけに、買い取っているばかりでは、貴重な外貨が出ていってしまう。そういう話だったのですね」

    --------------------------------------------------------------------
    (※18)【繰り綿・繰綿】綿繰り車にかけて種を取り去っただけで精製していない綿。(大辞林 第3版より【URL】http://bit.ly/1inuIO8

    (※19)原敬(はらたかし)[1856~1921]岩手出身の政治家。新聞記者、外務省勤務を経て、大阪毎日新聞社社長に就任した。1918年に最初の政党内閣を組織する。藩閥政治が支配的だった時代に新聞記者だった原が首相となったことから「平民宰相」と呼ばれた。交通の整備や教育の拡張などの積極政策を展開したが、1921年に東京駅で刺殺された。(デジタル大辞泉、大辞林第三版より【URL】http://bit.ly/1dhjV4n
    ----------------------------------------------------------------------

    (その2に続く)


    原発 放射能 食品汚染 TPP 沖縄戦 

    関連記事
    スポンサーサイト

    テーマ: 許されない出来事

    ジャンル: ニュース

    真実の追求  /  tb: --  /  cm: --  /  △top
    原発 放射能 食品汚染 by freeseo1
    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。