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    原発問題 -The Truth is Out There-

      : 

    東電福島原発事故の真実 放射能汚染の真実 食物汚染の真実 正しい情報を求めて

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    IWJ特報第120号「旧日本軍による隠されたジェノサイドの真実」(その2) 

    第120号
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              岩上安身のIWJ特報!
         旧日本軍による隠されたジェノサイドの真実
        ~北海道大学名誉教授・井上勝生氏インタビュー(その2)
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    (IWJ転載許可済み)


    (その1の続き)

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    ◆「東学党」という党は存在しない◆
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    岩上「佐藤政次郎さんが木浦に行った話の前史が非常に長いものになりました。話を戻すと、頭蓋骨は珍島にあったものであることが確定して、それを奉還したわけですね。

     この問題には東学党が関わっています。しかし、『東学党の乱』という呼び方をしますが、『東学党』という組織も存在しないし、『乱』という言い方もおかしいように思いますし(※20)、見直しをする必要があるのではないかと思います。

     しかし、僕らが一般的に習った歴史教科書には、『東学党の乱』と書いてあります。『東学党の乱があった』と書いておしまいにしているのです。そうした歴史の記述を塗り替えてしまうようなことが分かってきているのですね。それをお話し頂けますか」

    井上「パク・ジョングン(朴宗根)さんという熊本の在日の方が、『日清戦争と朝鮮』(※21)という大著を書いています。日清戦争で日本が朝鮮半島に入っていって、鴨緑江のほうへ北上していって、中国と戦います。その時に甲午農民軍が蜂起します。パク・ジョングンさんその本で書いている頃は『甲午農民戦争』と言われていましたが、甲午農民軍が朝鮮全土で蜂起したのです。

     1894(明治27)年のことです。東学党、あるいは甲午農民とも言われますが、その東学農民が日本軍に対して蜂起したということは、各地域の言い伝えとしては残っていたのですが、日本が植民地支配をしている間は全く調査することができませんでした。

     調査するどころか、その蜂起に参加した農民は悪い奴で反逆者だとされたのです。実際に私たちはそれに参加した方にお会いしましたが、彼は日本の植民地支配時代は反逆者扱いされていたそうです。

     そして解放された後、韓国の独立後も、まず独裁政権ができ、それから軍事政権ができましたから、民衆運動の研究は実際のところできなかったのです」

    岩上「抗日運動というナショナリストの運動だから、日本の植民地支配が終わった時点では歓迎されて名誉回復されるかと思いきや、パク(パク・チョンヒ=朴正煕)政権やチョン・ドファン(全斗煥)政権などの軍事政権にとっては『農民が蜂起した』ということにできなかったので、その話は力ずくで封じ込まれることになったわけですね」

    井上「おっしゃる通りです」

    岩上「全体主義体制を続けているので、日本に抗議をしたり、抵抗したりした農民の名誉回復ということをしなかった。つまり権力に抵抗した人々のことは、名誉回復しないままにしてしまったのですね」

    井上「そうですね。本当に有名な抗日の闘士たちは名誉回復されましたけども、いわゆる在地で蜂起した農民たちは名誉回復されないままできたんですね」

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    (※20)日本で戦は「乱」「役」「変」という言葉で呼ばれてきたが、それぞれ意味が異なる。「乱」は、中央権力とは違うもうひとつの権力が作られてそれが中央権力と争う場合(現代で言うと内戦状態の場合)に使われる言葉である。
    (参照『http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の合戦一覧』)中塚明氏は「”乱”という呼び方は、この農民の大衆的な決起を、「許しがたい、ふとどきだ」と思った当時の朝鮮王朝政府や地方役人から見た呼び方です。」と述べる。(『東学農民戦争と日本』中塚明「東学農民戦争はどうして起こったのか」p.31)ちなみに「戦争」という言葉は明治以降に使われるようになった翻訳語であり、日清戦争が日本史においてはじめて「戦争」と呼ばれた戦いである。

    (※21)朴宗根『日清戦争と朝鮮』(青木書店、1982年)出版社による紹介文「日清戦争の戦場となった朝鮮の政治・社会の変動、それを激化させた日本の侵略政策と朝鮮政府・人民の多様な抵抗(これまで秘匿され歪められてきた史実)を膨大な史料の発掘と分析によって描きだし、日清戦争の歴史的意義を問いなおす総合的研究」(【URL】http://bit.ly/1cKWOks
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    ◆東学とは何だったのか◆
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    井上「東学の蜂起で一番有名なのは、チョン・ポンジュン(全?準 ぜんほうじゅん)さんです。 チョン・ポンジュンさんは、人々の言い伝えにずっと残っています。あと二人、伝説として伝えられ、歌にもされてきたのが、キム・ゲナム(金開男)とソン・ファジュン(孫化中)です。

     チョン・ポンジュン、ソン・ファジュン、キム・ゲナムというのは全羅道の指導者たちです。その本にも出てくると思いますけども、そういう指導者たちの伝説がずっと歌にされて、言い伝えられてきています。

     韓国で民主化運動が起きるとき、ビラなどで取り上げられるのは東学です。自分たちの民主化運動の原点は東学だというのです。あまりスポットライトを浴びないままだった東学に、一番スポットライトを当てたのは、民主化運動の人たちだったのです。

     民主化運動の人たちは、東学を非常に高く評価しています。金大中が大統領時代に日本に来たとき、国会演説をしたのですが・・・」

    岩上「98年ですか」

    井上「はい、98年に日本の国会で演説し、アジアにも民主主義の伝統があると述べました。民主主義はヨーロッパだけの専売特許ではなく、アジアにも地道な民主主義ができてきたと言っています。ヨーロッパとアジアの違いは、早いか遅いかだけなんだと、金大中大統領がはっきり演説しました。

     そのときに、朝鮮では東学という『人すなわち天』という平等を主張する運動があって、非常に厳しい弾圧を受けながらも戦った人たちがいたんだと述べました」

    岩上「儒教や仏教と並ぶもののように、東学を扱ったわけですね」

    井上「そうですね」

    岩上「人の心の中には、天に通ずるもの、神のような心が誰にでも備わっているという思想だとうかがいました」

    井上「そうですね。民主化運動の人たちに非常に高く評価されました」

    岩上「金芝河(キム・ジハ)さん(※22)といえば、団塊の世代のヒーローだった人なのですが、圧倒的多くの人、特に若い人は知らないと思います」

    井上「そうですね。私もそんなに知っていたわけではないです」

    岩上「そうですか。キム・ジハさんは、フォーク・ヒーローというか、イムジン河の歌とか、詩人として大変有名な方ですね」

    井上「詩人ですね」

    岩上「この方が、東学の研究もおやりになったということなんですね」

    井上「ええ。ちょうど、1995年に北海道大学の古河講堂で東学の首魁の遺骨が見つかりました。東学農民軍がチョルラド(全羅道)で一斉蜂起して東学農民戦争となったのが1894年ですから、遺骨の発見は、ちょうど東学農民戦争の100周年があった次の年になります。

     ハン・スンホン弁護士が札幌へいらっしゃって、まず第1回目にお話をしたのが1996年、つまり遺骨発見の翌年でした。そのとき、ハン・スンホン弁護士が、ちょうど2年前に東学農民戦争の100周年の事業があったとおっしゃったのです。
    『今年はちょうど102周年にあたる』と言っていました。5月が東学の蜂起の記念日です。

     自分たちも最大の関心を持っているとおっしゃいました。そして、東学の指導者の遺骨に間違いないということがわかってから、まず正式な連絡を頂きました。韓国ではいろいろな団体が統一組織を作るとおっしゃいました。

     結局、韓国の『東学農民革命軍指導者遺骸(いがい)奉還委員会』という委員会が作られて、北大文学部の委員会に正式な連絡が来たんですね。それできちんと原状回復をしようという話になりました。ただ、そのとき、珍島の状況がわかったのです。それが東学農民戦争の話と重なりますから、どんなふうにわかったかということをお話ししましょう」

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    (※22)金芝河(1941~)韓国の詩人、思想家である。四・一九学生革命に参加し、その後の韓国の学生運動を主導した。1970年に、風刺と叙情を特徴とする「五賊」という長編の譚詩を発表する。反共法によって投獄されるが、釈放後、民主化闘争に参加している。(デジタル大辞林、大辞林第三版より【URL】http://bit.ly/18Rndfi
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    ◆教科書の記述では分からない東学農民戦争◆
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    岩上「先生、その前に、多くの人が、東学農民戦争や東学党の乱のことを、多分いまだにほとんど知りません。

     『東学農民戦争と日本』のなかで中塚明先生が書いている『日清戦争をめぐる歴史の記憶』の章は『日清戦争についての日本人の記憶』という節で始まります。東学の乱、東学農民戦争が日清戦争と結びついているので、ちょっとこのことに触れさせてください。

     山川出版社の『日本史』は、高校の日本史の教科書で最も多く使われているものです。その教科書では、1894年(明治27年)、朝鮮で政府の専制政治に反対する大規模な農民反乱、甲午農民戦争、東学の乱が起こると書かれています。

     それで、清国は朝鮮政府の要請で、その鎮圧を理由に出兵しました。そこに清が入ってくるわけですね。そして第2次伊藤博文内閣は、これに対抗して直ちに朝鮮に軍隊を派遣したとあります(※23)。

     農民の乱が起きると、なぜ、よその清国の兵士が入ってくるのでしょうか。そして、なぜ、よその国である日本が朝鮮に入っていくのか。このことからしても、現代の特に若い人にはピンとこないと思います。あるいは若くなくても、歴史に詳しくない人だとわかりません。ちょっとご解説いただけますか。

     また、ちょうどそのときの外務大臣は陸奥宗光でした。陸奥宗光さんというのは、『蹇蹇録(けんけんろく)』(※24)という自伝を遺しました。日本の政治家が、こういう資料を残すことは珍しく、ほぼ唯一のものでしょう。山川の教科書には『ロンドンでは駐英公使青木周蔵がイギリスとの条約改正交渉をすすめ、領事裁判制度の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした日英通商航海条約が調印された』と書いてあります。

     不平等条約が結ばれていたときに、より平等なものに書き換えてもらう交渉をしていたということですね。これに力を入れた。そして、イギリスはそれを認めます。そして、山川の教科書の記述では『これに力をえた日本政府は清国に対して強い姿勢をゆるめず、同年七月末、ついに日清両軍は衝突し、八月、日本は清国に宣戦を布告し、日清戦争がはじまった』となっています。

     これについて中塚明先生は次のように書いています。

     『大規模な農民の反乱(甲午農民戦争、東学の乱)、ちゃんと書いてあるじゃないか、といわれるかもしれません。この日本も清国も朝鮮への出兵の理由にした、東学農民軍の一八九四春の蜂起については、たしかに日本の歴史の教科書には中学校用のものもふくめて書いてあります。だからたいていの人は「東学農民? 知ってる! 日清戦争の原因になった東学党の乱のことでしょう」というかもしれません。(※25)』

     ところが、実際には、『日本の侵略に反対して、春の蜂起をはるかに上回る規模で、秋からその翌年にかけて』、したがって1895(明治28)年にかけて起こった抗日闘争があり、この抗日闘争を『日本軍は徹底的に弾圧、日本の侵略に抵抗した「東学農民」を皆殺しにした』という。

     驚くべきことです。教科書を通じて、東学党の乱という言葉は知っている。しかしその東学党の乱という言い方も間違いで、東学党という党はなかった。東学というのは、一つの平等思想のことだった。

     だから朝鮮の支配階級にとっても不都合なもので、東学は朝鮮の支配階級からも疎まれたし、そして日本は朝鮮を植民地支配としていくために、非常に邪魔だと言って皆殺しにしたという。こんなことは誰も知らない。

     山川出版社の教科書に書いてある通説が日本国民の常識になってしまっています。いったい何が足りないのか、何が間違っているのか、それを教えていただけますか。

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    (※23)山川出版社の『日本史』の記述は以下のとおり。
    「一八九四(明治二七)年、朝鮮で政府の専制政治に反対する大規模な農民の反乱(甲午農民戦争、東学の乱)がおこると、清国は朝鮮政府の要請でその鎮圧を理由に出兵した。第二次伊藤内閣はこれに対抗してただちに朝鮮に軍隊を派遣した。ちょうどそのころ、外務大臣陸奥宗光のもとで、ロンドンでは駐英公使青木周蔵がイギリスとの条約改正交渉をすすめ、領事裁判制度の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした日英通商航海条約が調印された。これに力をえた日本政府は清国に対して強い姿勢をゆるめず、同年七月末、ついに日清両軍は衝突し、八月、日本は清国に宣戦を布告し、日清戦争がはじまった」

    (※24) 蹇蹇録は外務大臣だった陸奥宗光が記した外交記録である。1985年に病気療養中に口述した文章を速記させ、その後推敲された。外務省の機密文書を引用するなど外交に関する秘録となっていたため、当時は一般に公表されず限られた人しか読めなかったが、1929年に《伯爵陸奥宗光遺稿》に収録された。現在は岩波文庫で読むことができる。1894年の東学農民戦争を利用した日本の軍隊派遣、日清両国の外交交渉などが書かれている。(世界大百科事典第二版、大辞林第三版より【URL】http://bit.ly/1ceBRrH

    (※25)『東学農民戦争と日本』中塚明「日清戦争をめぐる歴史の記憶」p18からの引用
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    ◆東学とは平等思想だった◆
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    井上「中塚先生も書いていらっしゃるように、東学は平等思想です(※26)。ヨーロッパのキリスト教に対抗したと言われていますけども、中塚先生は、韓国の在地の思想になろうとして東学と名乗ったのだとおっしゃっていました。その通りだと思いますけどね」

    岩上「西洋の学問に対抗する形で、東学というものがあったということですね」

    井上「平等思想でもあります。男女平等とも言っていますしね」

    岩上「男女平等も。当時としては画期的ですね」

    井上「画期的ですね。韓国では未亡人は再婚しないのが儒教で一番道理とされていましたけれども、東学は未亡人の再婚も、もちろん勧めます。ですから寡婦がたくさん東学に参加しました。大人と子供の平等、年齢差の平等も主張します。かなり徹底した平等の思想は、儒学の国では画期的なものですよね」

    岩上「なるほど。東学の特徴は平等思想だったのですね」

    井上「平等思想ですね。それは儒学と全く反します。そのため、激しい弾圧を受けました」

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    (※26)東学の思想のもっとも核になる考え方は「侍天主」(じてんしゅ)である。それは、「すべての人びとは、だれでも自分のなかに『天主』(ハヌルニム)が存在している」という意味である。「天主」は特定の神ではなく「宇宙万物の生命の根源」を指していて、どんな人でも修練・修養を通して天と一体化できるとしている(『東学農民戦争と日本』中塚明「東学農民戦争はどうして起こったのか」p36)。

     中塚明氏は「東学は、朝鮮王朝の末期、政治的・社会的に直面していたさまざまな困難な問題を民衆のレベルから改革し、迫り来る外国の圧迫から民族的な利益を守ろうとする、当時の朝鮮社会の歴史的なねがいを反映した思想」であったことを指摘している(『東学農民戦争と日本』中塚明「東学農民戦争はどうして起こったのか」pp37-38)。
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    ◆日清戦史から消された日本軍による王宮占拠事件◆
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    井上「この地図をご覧ください。最初におっしゃったように、東学党の乱と言われている、第1次の朝鮮王朝に対する異議申し立て、蜂起は、 全羅道の南西部にあるコブ(古阜)で起きています」

    岩上「全羅北道ですか」

    井上「全羅北道ですね。北道で起きてますね」

    ・日本軍の部隊の進路(『東学農民戦争と日本』より転載)
    【図表URL】http://bit.ly/1dhRmUm

    岩上「コブというんですね」

    井上「はい、まずコブで蜂起します。民乱という百姓一揆を起こして、チョン・ポンジュンが弾圧されます。それでソン・ファジュンやキム・ゲナムなどのいろいろな指導者とともに、今度はコブの少し南のところで蜂起するのです。

     それが韓国では、いわゆる東学農民戦争の発端というふうに今は言われています。これが第1次東学農民戦争です。そして南のほうへ展開して、この全州のチョンジュを占拠するのです。

     それが中国や清や日本が朝鮮に出兵するきっかけ、口実にした東学党の乱というのは、この全州の占領する第1次蜂起のことです。ですから、地理的にはこの辺りの東学の農村組織で蜂起して、全州を占拠しました。

     その蜂起を口実に、清と日本が入ってくるんですね。ちょうどその頃に、農民軍も全州をなかなか持ちこたえられなくて退却をはじめて、各地域に分散していきます。それで、全州、チョンジュですね。ここは、『食はチョンジュにあり』と言われて非常に韓国料理のおいしいところだと言われていますね。

     そのチュンジュに、外国の軍隊が一斉に入ってきて、農民軍は地方に分散して、政府と和約(わやく)します。チョンジュ和約(全州和約)という協定を結びました。そして各地へ分散して、だいたいこの全羅道一帯で農民自治を展開するのです。

     占拠するんですね。そこへ日本軍がソウルへ入って、1894年、キョンボックン(景福宮)という王宮を軍事力で占領する。日本軍は深夜に忍び込みます。韓国王宮を守備する兵隊は当然反撃しますから、かなり長い間、銃撃戦をするんですね」

    岩上「これは王宮ですよね。日本の呼び方では『けいふくきゅう(景福宮)』、キョンボックンと言います。この王宮に、日本で言えば皇居に、外国の軍隊、例えば朝鮮軍とか韓国軍が上陸して入ってくることを想像してみると、どれだけ大変なことか、よくわかる。街中を外国の軍隊が進撃した挙げ句、夜間に言いがかりをつけて王宮に侵入して、守護していた守備隊を殺して、制圧し占拠してしまうという大事件です」

    井上「正門を爆破しますからね。正門が開かないものですから、火薬を仕掛けたのです」

    岩上「すごいですよね。こっそりとやったという話ではないですよね」

    井上「こっそりではないです。ただ、それを、日清戦争とは呼ばないし、日清戦史の中には日本軍がキョンボックンへ入った7月23日という日付は記述されているんですけども、そういう戦いがあったことは全く書いてないんですね」

    岩上「戦史というのは、きちんと記録を残さないといけないんですよね。それが、国内向けの戦史にも載っていない」

    井上氏「参謀本部が編纂(へんさん)した、全8巻の戦史ですよね。明治27~28年、日清戦史(※27)です」

    岩上「このことは、本来はちゃんと書かなければいけないはずです」

    井上「ヨーロッパではこのような戦争があると、将来のためということで、その戦争の自分たちの戦い方の良かったことや悪かったことをかなり客観的に、少し自立した編集部を作って戦史を作ります。将来のためです」

    岩上「過ちを起こさないためにですね」

    井上「普通ならば、戦争についてのできるだけ客観的な記述をするように努めますよね。ところが日本の場合は、戦史は参謀本部が作るのですが、このキョンボックン(景福宮)のことは・・・」

    岩上「戦史から消してしまった。それで、幻の王宮占拠事件になったのですね」

    井上「はい。中塚先生は、その事件から日清戦争が始まったとおっしゃっています。その後すぐにソンファン(成歓)の戦いが起きますから。王宮の占領ですから、このことは当然、朝鮮全土には知れ渡ります。それで日本軍は、まず中国軍と戦います」

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    (※27)近代デジタルライブラリー 日清戦史
    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995400/1
    川崎三郎、博文館、明治29-30年
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    ◆隠された歴史 日本軍の東学農民弾圧◆
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    井上「黄海の海戦です。それからソンファンの戦いがあります。マサンの戦いをして、それから平壌(ピョンヤン)大海戦に向かっていきますね。そのために、プサン(釜山)からソウルまで日本軍の兵站線がありました。日本軍の守備隊の陣地が転々とありました。

     当時の参謀本部が作った地図があります。その地図を使って、守備隊を展開して物資を送っていました。やがて黄海の海戦で勝ったあとは、インチョン(仁川)に軍隊を送って、大軍勢がここからずうっとピョンヤンのほうへ北上して、やがて鴨緑江を渡って、中国領へ入っていきます。

     日本軍は、まず、電信線を敷設して勝手に通信します。それに中国、朝鮮政府は反対しました。そして守備隊をずっと展開します。何万という軍勢の日本軍が入ってきます。秀吉時代を思い出させます(※28)。

    まず王宮を占領して、王を事実上、虜(とりこ)にします。で、自分たちにとって都合のいい、開化派の政権を作らせます。そのため今度は東学農民たちが・・・」

    岩上「怒り、蜂起するんですね」

    井上「はい。第1次蜂起はこの地域ですけれども、東学は実は朝鮮全土へ広がっていましたから、朝鮮全土で蜂起になりました。第1代のチェ・ジェウ(崔済愚)という開祖は、キョンサンド(慶尚道)で東学を開きます。第2代の指導者は、チェ・シヒョン(崔時亨)です。

     第1代の教主チェ・ジェウは朝鮮政府に処刑されるんですね。1864年という早い時期に処刑されてしまいます。そして、第2代の教主チェ・シヒョンも日清戦争のあとに処刑されます。彼らが日清戦争の頃も東学全体の教主でした」

    岩上「『東学をはじめて民衆に説いたのは 慶州の没落したヤンバン(両班)の崔済愚(チェ・ジェウ)という人でした』と書いてあります。でも、この方は早い段階で倒されてしまうんですね。この人が初代ですね」

    井上「二代目が、チェ・シヒョン(崔時亨)です」

    岩上「チェ・シヒョンというのが、『斥倭洋』と言った人ですね。日本と西洋を退ける、攘夷の朝鮮バージョン。彼が教主となり、日本の教科書には書いてない、秋からの全土での蜂起をしていくわけですね」

    井上「ええ、そうです。チェ・シヒョンが 弾圧の中で東学の地下組織を作るんです。チェ・シヒョンが布教したのは、まずキョンサンド(慶尚道)です。それから彼はずうっと弾圧を逃れて、カンウォンド(江原道)に行きます。こちらのほうですね。ソウルより北のほうの、カンウォンドです。ここへ逃れていきます。

     ですから東学の基盤はまずキョンサンド、カンウォンドです。それからこの時期に、彼は布教のため朝鮮の全体を歩くんです。この時期に、チュンチョンド(忠清道)、それから全羅道にずうっと布教していきます。ですから、東学がずうっと朝鮮全体に広がっていく。彼自身は、日清戦争の頃には、報恩(ポウン)にずっと潜伏するんです。

     報恩は東学全体の中心部になります。だから東学は教祖伸冤(しんえん)運動と言いますけど、東学に報恩(ほうおん)を求めたりするときに、この報恩に数万人が集まる大集会を開きます。それから全羅道ではクムグというところに集まって、大集会を開きます」

    岩上「今、話しているのは、隠された歴史の第一弾、秋の東学党、東学農民戦争のことですね」

    井上「それが非常に重要なところです。チェ・シヒョンの布教によって東学は朝鮮全体に地下組織を持っていたのですが、そのために、日本軍が入ってきて東学が抗日に蜂起したときに、その蜂起が全羅道だけじゃなくて、全朝鮮で起きるのです。

     報恩は山岳地帯です。今でも東学のいろんな記念行事が行われています。ここで全体的な抗日蜂起が起こったのは、そういう背景があってのことなのです。全朝鮮で蜂起します」

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    (※28)文禄・慶長の役。豊臣秀吉は1592年に朝鮮に対する侵略戦争を行った。日本軍は朝鮮民衆の義兵闘争や明の救援軍に阻まれ、1593年に停戦協定を締結した。しかし、1597年に戦闘を再開し、翌年の秀吉の死まで続けられた。朝鮮側では「壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)倭乱」と呼んでいる。
    (大辞林第三版より【URL】http://bit.ly/1agpvji
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    ◆東学の蜂起は朝鮮全土で起きていた◆
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    井上「熊本の研究者のパク・ジョングン(朴宗根)さんが、防衛省、当時は防衛庁の戦史資料室、現在は防衛省の防衛研究所図書館ですけれども、そこで陣中日記などを読まれたのです。

     それを読むと、東学の蜂起は、言われているチョン・ポンジュンの伝説的な蜂起だけではなくて、朝鮮全体で起きているんだと書かれています。防衛省の記録、陣中日記に実際にたくさん書いてあるのです。

     あちこちで戦い、有名な戦場もたくさんあります。北のほうでは、ソウルの北の黄海道(おうかいどう)やピョンワンドでも蜂起して、ここでも凄惨な弾圧が行われました。パク・ジョングンさんはそれについて1980年代に書かれました。

     ちょうどその頃に韓国では民主化運動の人たちが東学農民の研究をはじめて、フィールドワークをして訪ね歩いています。それまで東学の蜂起というと、南接(なんせつ)のチョン・ポンジュンの蜂起がもっぱら伝説となっていた蜂起でした。

     でも実際に歩いてみると、北接(ほくせつ)の人の蜂起がいっぱいあるのです。パク・メンスさんや、私、シン・ヨンウンさんや、いろいろな運動家の人たちも一緒になって歩いて、資料をたくさん発掘しました。

     第1次東学党の乱というと、教科書では蜂起はここら辺で起きたと書かれていますけれども、大事なのは、抗日蜂起は朝鮮全域で起きていたということ、じかに武装して竹槍と火縄銃を持って蜂起した農民だけでも数十万いたということです。そういう蜂起は地域で支えられ、地域の支持を得ます。

     ライフル銃を持っている日本に対して、ゲリラ戦を展開しました。日本軍がやってくるとすぐワーっと姿を消して、日本がいなくなるとまた姿をワーっと姿を現すという戦い方をしました。彼らは地元に支えられて戦ったのです」

    岩上「韓国全土での戦いだったということ、これが隠された歴史ですね。今まで報じられてこなかったことです」

    井上「パク・ジョングンさんの研究ですが、当時はまだ日本の研究書は韓国では公に翻訳できなかったのですけれども、実は韓国では研究者たちは自分たちで翻訳していました。パク・ジョングンというと誰でも知っているというように、パク・ジョングンさんの研究は韓国でも実は通じ合っています」

    岩上「先ほど話に出た王宮占拠事件は、怒りを買ったことでしょう。これは大きかったわけですよね。日本は解放軍でもなんでもなかった。当時の日清戦争の建前は、独立でした。清国はずっと長い間朝鮮を属邦であると言っていたので、日本はこれを独立させるんだという建前です。

     韓国独立のための義戦であると主張したのですが、日本軍がやったことは第一番目に、王室を占拠することだった。だから、これは言っていることとやっていることが違う。全然独立させるということではなく、むしろ征服しようとしているのだ。韓国の多くの人が民衆レベルで気づいて、反乱が起きたわけですよね」

    井上「そうですね。結局、王宮占領で正門を爆破するわけですし、さらにソウル公使も入れ替えます。最初にいた大鳥圭介は手ぬるいと言われ、井上馨(かおる)が乗り込みました。彼は、前の大鳥圭介が手ぬるいと言うだけあって、実に頭越しの外交をします」

    岩上「強圧的な外交をやるわけですね」

    井上「ええ。それで、本当に韓国の全体の反発を受けます」

    岩上「当時トップにいた伊藤博文が、井上とは長州以来の盟友でした。そして、あとで話が出てくると思うんですけど、実際のこの農民の鎮圧をやった大隊長も、長州の人物でした。長州の人たちの働きが、何というか、目覚しいものというか、非常にカギになってきます」

    井上「チョ・キョンダイさんや私は、数十万の農民が蜂起したという言い方をしますけれど、韓国の民主化運動からはじめた研究者たちは、だいたい300万人と言います。

     誇大ではないかと言われますけれども、実際に竹槍と火縄銃を持って数十万が蜂起して、それを地域全体で支えるわけですから、300万が蜂起したという言い方も、あながち誇張ではないですよね。

     実際に現地に行ってフィールドワークをしますと、それを感じますね。朝鮮全土で日本軍に対して、大蜂起したということです」

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    ◆兵站を軽視し、苦戦した日本軍◆
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    岩上「竹槍と火縄銃だったということですよね。しかし、これは全く新兵器の日本の兵器にはかなわなかった。それで悲惨なことになります。

     日本はこれに対してすぐに反応します。よその国の農民の反乱なのですけれど、そしてその朝鮮国の主権を認めて独立させるということが建前だったはずなのに、日本軍は朝鮮へぬけぬけと出て行って、ずっといた挙げ句、出て行けという声があったら、これに対して鎮圧せよという命令が出ます。この鎮圧せよという命令が、かなりひどい命令だったと聞いています」

    井上「そうですね。まず、北接の兵站線でゲリラ戦をします。それは、通信線を切断したり、電柱を何十本と倒したり、それから守備隊の陣地に蜂起したりするゲリラ戦です。日本軍の朝鮮での指揮部はインチョン(仁川)にありました。インチョン兵站司令部です。仁川(じんせん)とは、今の韓国の国際空港のあるところです。

     まず粘り強い散発的な農民の蜂起が起きます。それを討伐するために日本軍は部隊を派遣してほしいという要請をするんですね。ところが、広島大本営ははじめは派遣を認めなかった。なぜかというと、そこも日清戦争の大事なところでしょうけども、日本軍は兵站線が非常に弱いのです。

     特にソウルから平壌に進軍するときや平壌から鴨緑江まで行くときに、食料が足りなくて、一時全軍が止まりました。あるいは食べ物がなくて兵士が飢えました。第一軍の参謀部も食料が足りなくなった」

    岩上「第一軍を率いていたのが、山県有朋(ありとも)でしたっけ」

    井上「ええ、山県ですね」

    岩上「大進撃をしながら、途中で食えなくなった。寒さもありましたね」

    井上「冬に向かいましたからね」

    岩上「それから飢えで苦しむわけですね。とにかく日本軍はロジスティクスっていうのを常に軽視してきて、いつも戦(いくさ)をやるときは現地調達だと言って、現地の農民から徴発していました。

     これは戦国時代からそうだったのでしょう。日本国内でそのやり方ができたのは、農民たちがいずれここは統治されるから、お上になる奴の言うことは聞いておかなければいけないと思って協力したのかもしれません。協力しない者は殺されてしまったのでしょうけれども。

     でも、朝鮮の人たちにすれば、支配者が入れ替わったら言うことを聞くという話ではすまない。何で外国人である日本人の言うこと聞かなければいけないのかということで、反乱を起こすわけですね。あるいは逃げてしまう。なかなかうまくいかないということが起こるわけですね」

    井上「そうですね。なかなか兵站線の兵力を派遣できなかったのですが、どうしても背に腹を変えられなくなったのは、イギリスとロシアの動向があったからです。まだ日本軍は軍事組織としては脆弱ですから」

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    ◆中国各地に利権をもつイギリスの動向~現在のアメリカに通じる構図◆
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    井上「イギリスがソウルに兵を派遣したり、沿海州のほうからソ連、ロシアが南下したりしてくる可能性があり、朝鮮を独占的に抑えたいと思っている日本は、そのために日清戦争を起こします」

    岩上「それが目的だったのですね」

    井上「朝鮮にイギリスやロシアが介入してくるのを一番恐れていましたから。東学が蜂起して、チョン・ポンジュンや、北接のチェ・シヒョンもそうですけど、はっきりとソウルを目指します。

     もしもソウルが危なくなるとすると、列強が入ってくることになります。こうなると、兵站線は今非常に苦しいとしても、全力を挙げて東学農民軍を叩き潰さなくてはいけないと広島の大本営(※29)は考えました。

     特に、日清戦争自身がのるかそるかの面もありましたから。川上操六(※30)が、兵站線の兵站総監で、責任者でした。彼が最初に出した命令というのは、蜂起した東学農民軍は、これから、『悉く(ことごとく)殺戮せよ』というものでした」

    岩上「ロシアが上から南下してきているため、それと接点起おきると、ロシアはそれを口実に、介入してくるのではないかと思ったのですね。

     あるいはイギリスは中国あちこちに拠点を持っていて、海を隔ててやってくると厄介なことになる。よくロシアの脅威と説かれていましたけど、イギリスだってどっちに転がるかわからない国でした」

    井上「あてにならないというところもそうですけども、やはりイギリスの利権からみれば、重点は中国にあるわけですから。中国市場のほうがはるかに大きく、日本の市場は中国の10分の1ぐらいでしたから。

     イギリスが一番恐れたのは、今条約を結んでいる中国が崩壊することでした。だから、日清のどちらが倒れるかという時に、イギリスがどちらの味方につくかということは微妙でした」

    岩上「その見方は今も通用するところがあるので、絶対に押さえなければいけないことです。イギリスの利権にとっては中国のほうが重要。このイギリスを、今のアメリカに置き換えられますね。アメリカにとって貿易高は、中国のほうが日本よりも多いんですよ」

    井上「圧倒的ですね」

    岩上「投資もしています。今日の投資というのは、帝国主義の時代で言えば権益があるということですね」

    井上「利権ですよね。お金を投資していますからね」

    岩上「日本と中国が揉め、中国におけるアメリカの利権が侵されるようなことがあれば、黙っちゃいないという話になるわけですよね。そういう微妙なところがあります。日本の日米同盟は、永遠の同盟みたいに思い込まれていますけど、そんなことはないですよね」

    井上「ないと思います。アメリカの財界や投資家たちもそのことは良く知ってると思います」

    岩上「そうですね。イギリスも自分たちの利権を守ることが大事だと考えた。これは本質的には、今の時代も何も変わってないですね。

     だから、日本は、権益を侵さない範囲で大国の顔色をうかがいながら、こそっとやっていたわけですね。そして農民の北上を恐れていた」

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    (※29)大本営は、1893年に公布された戦時大本営条例によって法制化された、日本軍の最高統帥機関。日清戦争において初めて設置され、広島市の広島城に置かれた。

    (※30)川上操六(かわかみ・そうろく 1848-1899)は薩摩藩出身の陸軍軍人。戊辰戦争に参加。日清戦争の参謀次長として、陸軍の作戦を計画した。
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    ◆大本営の下した秘密の虐殺指令「ことごとく殺戮せよ」◆
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    井上「そうですね。北上で、兵站線の兵力は非常に苦しんでいますから。それで広島の大本営が出した命令が、『ことごとく殺戮せよ』というものだったのです」

    岩上「これはひどい話なんですよ。『向後、ことごとく殺戮せよ』というのは、川上操六が言ったのでしたか」

    井上「そうです。電報で命じました。インチョンの司令部に宛てて、釜山を経由して電文を送りました」

    岩上「川上操六は将軍ですよね」

    井上「当時は少将、参謀次長です。参謀総長はお宮さんでしたからね。でも実質的には川上が日清戦争の責任者でした」

    岩上「『川上兵站総監より電報あり。東学党に対する処置は厳烈なるを要す。向後 悉く殺戮すべし』と書かれています。すごいですね」

    井上「これは熊本のパク・ジョングンさんが発見し、本で紹介したので、研究者が知ることになったのです」

    岩上「ショックだったでしょうね」

    井上氏「原文はこれです」

    岩上「『向後 悉く殺戮すべし』。陣中日記ですね」

    井上「はい。南部兵站幹部とありますが、南部兵站幹部というのは朝鮮の南のほうの兵站を監督する指導部でした。これはインチョンの陣中日記です。『10月27日、土曜日、晴れ』とありますね。

     そして、『釜山今橋少佐ヨリ左ノ電報アリ』。釜山を経由して、『川上兵站総監ヨリ電報アリ東学党ニ対スル処置ハ厳烈ナルヲ要ス向後悉ク殺戮スヘシ』と書いています。この電報が、今、防衛省の図書館、防衛研究所の図書館にあります」

    岩上「はっきりとした証拠が残っているのは、すごいことです」

    井上「広島の大本営ですね」

    岩上「この時点で、このことは当然、ずっと隠されてきたわけですよね」

    井上「ええ、そうですね」

    岩上「そして、これは、一部の現場が暴走したようなものではなく、計画的で組織的なものであったということですよね」

    井上「殺戮はそうですね。それから、朝鮮全体で竹槍と火縄銃を持って数十万の農民が蜂起して、その蜂起を地域の朝鮮の人たちが支えるわけですから、民主化運動の研究者たちが言う300万の朝鮮の農民が蜂起したというのは、あながち嘘ではありません。そういう大戦争が、日清戦史では全く書かれていません。

     これに対して、日本軍の兵力全体は、今わかっているところでは、4000名弱でした。大隊は二つ、後備第十九大隊と、後備第十八大隊の第一中隊です。それから、後備第六連隊の中隊、後備第六連隊が平壌のほうの北のほうの掃滅戦を行います。それから釜山に派遣されて、通信線全体を守備します。東学農民を随時討伐したのは、後備第十連隊、それの四中隊です。

     だから、連隊二つと大隊二つは少なくとも投入した、4000名弱の大作戦ですよね。期間は3ヶ月から4ヶ月でした。それが日清戦史にははっきりと『一中隊以上の作戦は全部記述した』と書いてあるんです。ところが、この作戦は戦史には全く書かれてない。これは、意図的に戦史から外したということです。それは証拠もありますので、あとでお話しましょう。

     やはり一番大事なところですからね。参謀本部が戦史から作戦を隠したことは、中塚先生も戦史草案を発見されましたけども、防衛省にもいろんな記録があります」

    岩上「全土を挙げて蜂起が起こりました。それに対して、スナイドル銃という新型の百発百中ライフル銃を使って、『面白いように』次々に農民を打ち倒した。実際に『面白いように』と書かれたそうですね。

     日本軍はほとんど損傷しないし磨耗しない。そして韓国の農民たちは、鐘や太鼓や幟(のぼり)で大騒ぎして蜂起はするけれど、たいした武器もなく、バッタバッタと死んでいく。戦死者の数は、大変に非対称なものだったと聞いています。それでも日本軍で死んだ人が一人はいるということですよね」

    井上「ええ、そうですね」

    岩上「その人の死がごまかされている」

    井上「そうですね」

    岩上「ちょっとその話を教えていただけますか」

    (その3へ続く)


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