11« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.»01

    原発問題 -The Truth is Out There-

      : 

    東電福島原発事故の真実 放射能汚染の真実 食物汚染の真実 正しい情報を求めて

    スポンサーサイト 

    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。
    スポンサー広告  /  tb: --  /  cm: --  /  △top

    IWJ特報第121号「旧日本軍による隠されたジェノサイドの真実」(その3) 

    第121号
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
                岩上安身のIWJ特報!
           旧日本軍による隠されたジェノサイドの真実
          ~北海道大学名誉教授・井上勝生氏インタビュー(その3)
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    (IWJ転載許可済み)


    (その2の続き)

    ================================
    ◆すさまじい殲滅の方法◆
    ================================

    井上「結局全体で蜂起するわけですね。そして殲滅される。東学農民軍を殲滅するために特に広島大本営が派遣しました。東学党討滅(とうめつ)隊というふうに陣中日記に出てきます。そこに東学党討滅の選任にあたる部隊だと出て
    きます。それが後備第十九大隊の三中隊です。

     その中隊がまずインチョンに上陸し、それからソウルの南のヨンサン(龍山)に行きます。そこは日本軍の陣地があったところで、今は米軍の陣地があるところです。そこから三中隊が三つに分かれて南下して、南西の方に行きます」

    岩上「最初は二中隊を現場から指揮命令していたのに、広島大本営が出てきます。つまり、陸軍のトップや総理大臣伊藤博文が話し合った形跡があります。

     そして三中隊送る。二中隊が三中隊に増やされるのは、人数が多かったほうがいいというただそれだけの意味ではなくて、特別に意味があるんですよね」

    井上「ええ、そうです。参謀本部が日清戦争のあとに書いた地図があります。この地図によると、ソウルから南のほうへ向かう街道は三つあります。一つは釜山へ行く途中、大邸と書きますが、テグを通る、テグ街道。それからもう一つ真ん中の道は清州(チョンジュ)を通るチョンジュ街道。今、清州大学があるところです。ここがチュンチョンド(忠清道)の中心ですね。それから一番西側は公州ですね。

     ですから、南へ包囲殲滅する作戦を立てたとすれば、どうしてもそれぞれが独立の中隊、三中隊が必要です」

    岩上「農民軍を北に行かせてしまうとロシアとの接点ができてしまう。それで、他の国に見せないように、秘密に殲滅してしまおうとした。それで日本軍の一部の部隊は南下していき、北上する道を押さえて、最終的に珍島のあった方向の隅へ追い詰めて殲滅するということになった。『掃滅(そうめつ)』という言葉を使うんですね」

    井上「そうです」

    岩上「恐ろしい言葉です。『掃滅』というのは具体的に何をするのですか?」

    井上「川上操六が、『ことごとく殺せ』と言いました。東学党は『ことごとく殺せ』という意味は、東学であれば、日本軍と戦っているかいないか関係なしに、『全部殺せ』という命令です」

    岩上「村々に進駐にしてきた日本軍が、地元の農民に『東学党か』と聞いて、『はい』と答えたら、反乱を起こしていない人間も殺してしまった。斬るのですか、撃つのですか」

    井上「銃殺。焼殺、焼き殺すというのも最後の局面ではありますよね」

    岩上「すさまじいですね」

    井上「具体的に起こった状況ですが、例えば日本が村へ入ってきます。東学はゲリラ隊ですから、すぐ隠れます(※31)。日本軍が受けている命令は『東学はことごとく殺せ』ですから、日本軍がやることはまず、その地方の地方官に連絡を取って、そして地方の事情を知った者を捕まえて東学を探させるとか、地方の有力者を使って探し出すことでした。

     そして、村へ入って捕まえてきます。その東学の人が実際の日本と戦った人間かどうかは関係ないんですよね。それは陣中日記に出てきますけども、捕まえてきた人間をみて最初は実際の兵站部の指揮官も戸惑った。電文記録に残っています。私がその本でも紹介しましたけども、有力者だと思って捕まえた人が、どうも有力者ではなかったいうことがあったのです」

    岩上「首魁ではなかった」

    井上「有力者ではないが、斬殺(ざんさつ)していいのか。それを上に問い合わせしました。そうするとインチョン(仁川)の兵站監部は、『貴官の言う通り、斬殺せよ』と言う」

    岩上「東学党の首魁ではない人を捕えたのだけれども、これの始末はどうしましょうと言ったら、『斬殺せよ』と言われたのですね。ものすごいですよね。だいたい、斬殺という言葉が、もうむごたらしすぎて、考えられないです。こ
    の電報を見ると『斬殺』って書いてあるんですよね(※32)」

    井上「書いてありますね。『銃殺』も出てきます」

    岩上「焼殺も銃殺も出てくるんですね。焼殺ってどういうことですか。焼き殺しちゃうんですよね」

    井上「ええ。焼き殺しますね。それは一番最後の局面では、はっきり証拠がありますね。藁(わら)に投じて焼殺するのです。藁の火というのは、強力で猛炎を発しますから。凄まじいものです。そういう行為を実際に部隊がするわけですよね。

     で、そのときに考えてほしいのは、私、本でも書きましたけど、朝鮮は交戦国ではないということです。日本と交戦しているわけではない。

     朝鮮の農民はあくまでも朝鮮の主権のもとにあります。日本軍は何も手出しをする権利はない。それから、仮に敵国だとしても、捕まえた者を捕虜にするとき、その捕虜を殺すのは当時の戦争の慣習に全く反します」

    ----------------------------------------------------------------------
    (※31)これに該当する箇所を『東学農民戦争と日本』から引用する。

     「日本軍は、戦闘記録のなかで、東学農民軍は、日本軍が進めば、一般農民に紛れて姿を隠し、日本軍が引けばまた現れ、進めばまた姿を消した、そのために「進退に疲れ果てた」と、討伐戦を通じて、繰り返し記していたのです。東学農民軍は、二〇世紀の、いわゆる「第三世界」に展開する民族解放戦線のゲリラ戦の鉄則を実行していたのだと思います」(『東学農民戦争と日本』p.82)

    (※32)これに該当する箇所を『東学農民戦争と日本』から引用する。

     「東学農民軍への対処は、厳烈にせよ、これから後、東学農民を「ことごとく殺戮」しなければならないと、日本の最高指導部の、皆殺し命令でした。重要なことは、これが軍隊の命令であり、次に述べるように、きっちりと命令通りに実施されたということです。

     翌二八日、夜午後七時過ぎに、慶尚道路東兵站司令部の飛鳥井少佐から電報が届きました。昨日、尚州城で、「首領と覚しい者、二名」を捕縛してきた、「色々取り調べ」たが、白状しない。「言語かれこれ」を察するに、「首領とも思われ」ない。「右様の者は、当部にて斬殺して然るべきや」と。これに対する仁川兵站監部の「答え」も記録されています。「東学党、斬殺の事、貴官の意見通り実行すべし」と」(『東学農民戦争と日本』p.65)

    (※33)『東学農民戦争と日本』には、この他にも日本軍による「ジェノサイド」の実態が詳細に記述されている。以下、その箇所を引用する。

     「処刑された人数について、大隊長は、次のように報告しています。『海南付近 二五〇人 唐津付近 三二〇人、長興付近 三〇〇人、羅州付近 二三〇人』と。そして、その他、威平県、務安県、霊厳県、光州府でも、三〇人から五〇人くらいの『残族』を処刑した、と南大隊長は報じて、東学農民軍は『もはや再興の患いなきものの如し』と記していたのです」(『東学農民戦争と日本』p96)

     「南大隊長は、『多く殺すの策』や『捜索し、探しだして殺す』作戦を展開したと、講話していました。これについて、先ほど紹介した、山口県で新たに見出した南小四郎文書の『東学党征討経歴書』には、もっと具体的な殲滅実施の様相が記されています。南大隊長が、支隊などへ出した殲滅命令が、次のように明記されていたのです。

     一八九五年一月六日の命令が最初です。南大隊長は石黒大尉(第三中隊)に対し『長興方面に出て、賊徒殲滅』の命令を出し、同日、鈴木特務曹長にも『海岸にある賊徒、殲滅に着手』の命令をくだします。次いで一一日には、石黒大尉へ、海南の賊徒、殲滅の命令を下し、さらに一三日には、松本大尉(第一大隊)へ『海南地方の残族を殲滅すべし』と命令、同日、さらに投衛営兵大隊長へ、海南で『賊徒、殲滅すべき命令』をくだしました。続いて一五日には、白木大尉へ、松本大尉と合流して海南の残族を殲滅する命令を下し、一九日に松本支隊へ、右水営付近の賊徒、殲滅すべしと命令を出しました。そして最後、二二日には、松本支隊へ、珍島付近の残族を、速やかに殲滅すべしとの命令を出したのでした

     全羅南道南部の東から西へ、長興、海南、右水営、珍島と、羅州平野の西南端の海岸地域と珍島など多島海の島々へ、殲滅命令が次々と出されたわけです」(『東学農民戦争と日本』p97-98)

     「殲滅作戦終盤の記録の一部ですが、紹介しましょう。羅州平野の南部沿岸、長候の戦いは、一八九五年一月八日から一〇日まで3日間でした。東学農民軍は、山腹を登って、山上に陣取る日本軍に迫りました。山の上から見ると、『敵軍、あたかも積雪の如く、鯨波、大地も振動す』。これに対し、兵士が所属した第二分隊と第一分隊が合同して実施した殲滅作戦について、次のように叙述しています。

     我が家は、西南方に追敵し、打殺せし者四十八名、負傷の生捕り十名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり。

     日本軍の陣営で、捕虜を拷問の後、焼殺した一例です」(『東学農民戦争と日本』p101)

    ----------------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆戦時国際法はすでにできていた◆
    ================================

    岩上「戦時国際法がだんだん作られてきていた。まだそれほど整備されていない時代だったと言う人もいるけれど、実際には捕虜の取り扱いについては、それなりにちゃんと決められていた時代でもあったのですよね」

    井上「そのことは私には不思議なんですけども、いろんな近代史の研究者の方がそういう言い方をされますよね。戦争法はまだできていなかった、これからだんだんできつつある時期だった、戦争の捕虜を殺害してはいけないということはだいたいおぼろげながらできていた時期だった、そういうことを言います。しかし、それは全く間違いですよ」

    岩上「全く間違いというのは、おぼろげどころではなく、できていたということですか!?」

    井上「国際法は、明治のはじめ頃にすでにしっかり翻訳されていました。平時国際法と戦時国際法が翻訳されています。国際法で、捕虜を殺害してはいけないという考えは19世紀から出てきています。それを刊行しているし、日本軍はヨーロッパに行っているのです。ヨーロッパ風の正義の戦いをしているというのを見せるために、国際法学者の有賀(あるが・有賀長雄)という学者をちゃんと陣地に招いています。

     有賀が日清戦争と戦時国際法(※34)という本を書いています。日本軍は占領地でもちゃんと国際法を守ったと書いていて、戦争の仕方も旅順の例外は遺憾だけれどもと書いている」

    岩上「これは別の話ですが、旅順でも大虐殺をやったのですね(※35)。旅順の大虐殺は、海外の軍人やジャーナリストたちに見られた。これは山県有朋なども、しまったというふうに言っていますよね。それが世界に知られて非難を浴びることになった。日本は旅順で一般市民を殺したということが知られています。

     東学党の場合は、交戦国ではなく、しかも相手は農民の非戦闘民だった。さらに、首魁でもないということもわかっている人でさえ殺した。全員殺したということですね。

     これはちょっとあまりにも暴虐の度が過ぎて、私ちょっと、何と言ったらいいやらという感じなんですけど。どうしてこんなことができたんでしょうね」

    井上「私は、日本近代史の戦争史の研究者の認識が不足していると思います。私は明治維新の研究者ですが、私が読んだ限りでも、例えば国会図書館などに行くと、国際法の古いもの、明治のはじめごろに刊行された文献はいっぱいあります。

     いろいろな有名な学者が国際法の評価書をしっかり出しています。日清戦史を読みますと、まとめのところでは、占領地行政についてちゃんと書いてあります。

     清国領を占領したとき、地元の非戦闘員が日本軍に対して敵対行為をしたという場合は、日本軍は処罰する権利を持つわけです。実際に、占領地で敵対行為をした清国民を処罰しています。ですが、それは国際法にもとづいてやっているのです。

     実際に日清戦史によると、占領地で日本に対する敵対行為で処刑された人間は確か100人かそこらですよ。敵対行為をしても特に重罪の者しか、死罪にしてはいけないのです。そういうルールはしっかりできていたのです。それなのに、何か研究者の人は、国際法は曖昧にしかできていなかったと言っています。イメージでしか言わないのは、非常に勉強不足です」

    岩上「もしくは政治的におもねっているというところでしょうか。日清・日露を遂行したときの政治的な権力が、今日もまだ現代日本において存続しているかのような恐れ方、おもねり方をしている可能性があるということではないですか。

     歴史家やジャーナリストや評論家や学者が、おもねりをしているというのか、まるで伊藤博文や井上馨の犯罪を暴くと、自分の出世や保身に差し障ると思っているかのようです。

     いずれにしても、当時、国際法違反、国際法は確立していた」

    井上「確立しています。これははっきり言わなければならないことです」

    岩上「それを知っていて、それに違反することを知った上でジェノサイドをやったということですね」

    井上「日清戦史に国際法についてちゃんと書いてあります。国際法に従って占領地行政もやったと書いています。占領地でもそういう布告をしています。当時の日本軍は、曖昧どころではなく、捕虜はどう扱うべきか、しっかり知っているわけですよ。その上で、朝鮮に関しては全く国際法を意に介しなかったということですよね」

    岩上「ひどい話ですよね。だからこれは、世界に隠れた形で、日本人にも朝鮮の多くの人たちにも知らせず、世界に知られない形で消してしまいたいと思っているということですよね」

    ------------------------------------------------------------------
    (※34)有賀長雄『日清戦役国際法論』陸軍大学校、明治29年
    【URL】http://bit.ly/19wvgfR

    (※35)旅順大虐殺は、日清戦争時の1894年に、日本軍が中国北洋海軍の基地の旅順を攻略するときに起こした大虐殺事件。旅順市民をも虐殺した。
    ------------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆ごまかされた一人の兵士の死の裏には、殲滅が隠されていた◆
    ================================

    井上「そうですね。日清戦史を書くのであれば、日本と中国が戦ったのが朝鮮の地であり、その朝鮮の全土で砲撃が起きて、少なくとも何十万人が蜂起した、そして、それを討伐するために4000の兵力を派遣したということを書く必要があります。4000の兵力を投入したっていうのは、予定よりもはるかに大きな部隊を投入したということです。

     実際の討伐は、確か、20何日で終わるという大本営の作戦だったのです。しかし実際は、4ヶ月ぐらい掛かってしまう。朝鮮の農民が大蜂起して、日本軍のそれに対する弾圧が予定よりはるかに大勢力を動員し、はるかに長期間を要したということになります。

     こういうことはちゃんと戦史に書いて後々に残すべきです。ものすごい反乱が起きたんだということを書き残すべきです。日清戦争が終わったあと、1895年の暮れからまた大蜂起します。 今度はウィビョン(義兵)の蜂起です。

     それは同じ地域で起こりました。ちょうど小白山脈の向こう側、最初に北接農民軍が蜂起したアンポ(安堡)、忠州(チュンジュ)、カフーン(可興)でウィビョンの蜂起が起きます。そういう蜂起が起き、日本軍は非常に苦戦をしたということを一言も書きませんでした」

    岩上「単に書き漏らしたなどという話ではなくて、意図的に、一人の兵士の死をごまかしています。杉野さんという兵士の死をごまかすという話が出てきますね」

    井上「そうですね」

    岩上「陸軍省と靖国神社も絡んでくる話です。この一人の兵士が死んだという話、これによって、いかに一方的な戦いかということが分かります。これはもう戦争というよりも、単なる弱者に対する虐殺ですね。

     井上先生が発見された、戦史から消された戦いについて、お話頂けますか」

    ================================
    ◆四国四県をまわり、記録を探し当てた◆
    ================================

    井上「南小四郎(こしろう)という大隊長が、戦闘報告を出しています。それは公使館の井上馨に宛てた報告です。その報告書についてはチョ・キョンダイさんとかといろいろ話をしたんですけども、チョ・キョンダイさんは、『日本兵もあそこでちゃんと死んでいますよ』と言いました。

     それを聞いたとき、おお、そうかと思いました。実際に南小四郎の戦闘録を読んでいると、連山という中央部の小さい村があるのですが、その連山の戦いで、後備第十九大隊の第三中隊の兵士が、東学農民軍の火縄銃の弾丸に当たって戦死していることが分かりました。一人だけです。私はそれで一人戦死したということを知ったのですが、ただ、研究者の間には、後備第十九大隊は一人も戦死しなかったっていう意見も結構あったんです」

    岩上「第三中隊ですか?」

    井上「第三中隊ですね。後備役にいたのは、だいたい30歳前後の高年齢の兵士です。当時、奥さんもいれば子供もいる兵士たちですね」

    岩上「その死は普通であれば、当然、靖国神社に祀られているはずのものです。それなのに、靖国をお調べになったら名前が出てこなかったのですね」

    井上「後備第十九大隊の兵士の亡くなった方々は全員、戦病死ということになっています。作戦展開中に亡くなったのが、確か2人でしたかね。戦争が終わったあとに、多くの日本軍が伝染病で亡くなります。彼らの名前がズラズラっと出ています」

    岩上「医療が十分ではなく、栄養状態も悪いのですね」

    井上「そうですね。ところが、その病死の方々の名前があるのに対して、戦死者の名前は一人もないのです。どうしてないのか不思議でした。

     ただ、戦病死した方の記録を見てわかったことがあります。靖国神社にある忠魂史でわかったのです。それに出身県が書いてありました。三中隊とも兵士の出身県が四国四県、つまり、愛媛、香川、徳島、高知だったのです。四国四県の兵士の混成部隊でした。それを知って、私は、ともかく四国四県を回ろうと思いました」

    岩上「大変なフィールドワークですね」

    井上「後備兵ですから何にも出てこないかもしれないと心配したのですが、とにかく回ってみようと、最初松山に行ったのです。松山には『海南新聞』という当時の新聞がマイクロフィルムで全部残っていました。それを見ていたら、後備兵の記事がたくさん出てきました」

    岩上「郷土から出征した兵士と、その家族の窮状みたいなことを心配する記事が、地元の新聞にたくさんあったのですね」

    井上「そうなのです。兵士は、みんな家族持ちで、だいたい幼子がいるんですよ。それで、ものすごく困窮していた。四国の郷土史の研究者の方は、そういう部隊が出兵していたことを誰一人知らないのです。びっくりされていました。だから郷土史の方で、部隊史を書いた方もいらっしゃるんですけど、『いやー、全然知らない』とおっしゃっていました。全くかき消されているのですね」

    岩上「消されているんですね」

    井上「記憶からも消されているんです。地元で熱心に近代史をやっている、例えば愛媛近代史文庫(※36)という、勤評闘争(※37)で鳴らした闘士たちが作った近代史の研究団体がありますが、そこの古参の方たちですら、そんなことは聞いたことがないと言うのです」

    井上「それは重大だというので、調査に非常に協力してもらいました。一番出てきた記事は、兵士の窮状を訴える記事でした。当時は、兵士の後方支援をするシステムができていないものですから、戦死したら何の補償もありませんでした。そういう状態で後備兵たちが現役に出てきます」

    岩上「恩給も十分ではなかったということですね」

    井上「そうですね」

    -----------------------------------------------------
    (※36)1985年に設立された団体。
    http://home.e-catv.ne.jp/bunko/index.html。これまでの「郷土史」、「地方史」の考え方をのりこえ、地域社会の歴史をとらえる新しい観点として「地域社会史論」を提起している。『愛媛近代史料』・『愛媛現代史料』・機関誌『愛媛近代史研究』・『愛媛資本主義社会史』などを刊行。(近代史文庫ホームページより【URL】http://bit.ly/1dhBBgi

    (※37)1957年~58年、公選制から任命制に変わった教育委員会制度のもとで、教員にたいする勤務評定が強行された。これは教育の権力統制を意図するものとみなされ、それに対して、教職員組合が中心となって全国的に激しい反対闘
    争が展開された。その闘争が勤評闘争である。(世界大百科事典 第2版より【URL】http://bit.ly/1ceg9Ym
    -----------------------------------------------------

    ================================
    ◆兵士の死んだ場所が書き換えられていた◆
    ================================

    井上「それから、徳島県で『徳島日日新聞』を調べていましたら、そこに、ヨンサン(連山)で亡くなった兵士のことが出ていたんですね。名前がありました。そこではじめて、兵士の名前がわかりました。杉野寅吉(とらきち)さんという方でした。後備兵です。

     どういう内容だったかというと、杉野さんが亡くなって、奥さんがものすごく嘆き悲しんで、自分もあとを追って死ぬと言っているという内容の記事でした」

    岩上「杉野寅吉氏は、本当は連山というところで死んだのですよね」

    井上「ハングルでヨンサン(連山)です。それと、第三中隊の水野分隊長が、家族に宛てて、『杉野寅吉は亡くなった、お悔やみ申し上げます』ということが戦場の状況を照らしながら書いてある手紙も新聞に載っていたのです。そこに、村の名前や地名が書いてあって、杉野寅吉という名前が書いてありました。

     私はその記事を見て、これは地名も人名も分かっているのであれば、多分お墓が当時作られただろうと思いました。農村部だから、お墓は残っている可能性はあるなと思っておりまして、できたら探してみたいと思ったのです。

     それと、もうひとつわかったことは、杉野寅吉が靖国神社忠魂史に載っていたことです。靖国神社の忠魂史の索引で探したら、実は杉野寅吉さんはちゃんと忠魂史で戦死者として載っていました。ただし、載っている戦場が・・・」

    岩上「靖国神社の忠魂史に、戦死者の記録が全部載っていることになっているのですか」

    井上「日清戦史には、出て行った部隊の一覧表と戦争が終わったあとの一覧表があります。そこに後備第十九大隊について書かれていて、松山へ帰ってきたと書いてあります。松山の三津ヶ濱(三津浜)の港に着いたのです。

     釜山、義州およびソウル、インチョンの間の兵站線上に展開していると書いてありますね。東学党討伐は第三中隊で、第六連隊が平壌のほうに展開している部隊でした。第十連隊は釜山からソウルの間の守備隊です。靖国神社忠魂史にはそう書かれています」

    岩上「靖国神社の忠魂史で調べられたのですね。杉野寅吉は連山の戦いで死んだことがわかったのに、それが靖国神社の忠魂史には出てこない。それで、索引で調べたら、死亡場所が別のところとなっていた、というわけですね」

    井上「はい、別の場所になっていました。索引で調べました。中塚先生が本の中で紹介されていますけども、7月の清国軍との成歓の戦いで亡くなったと書いていました。杉野寅吉の名前が、全然違う戦場に出てきたのです」

    岩上「この話もミステリーですね」

    井上「ミステリーですね。何らかの事情があって、靖国神社は、連山で東学農民軍と戦って死んだ戦死者を、清国軍との成歓の戦いで死んだことに変えたんですよね。

     連山の戦いは12月10日で、成歓の戦いは7月ですから、全く違います。後備第十九大隊は7月にはまだ編成を終えてないんです。四国で編成中です。だから靖国神社の忠魂史は相当乱暴なことをしています」

    岩上「ムチャクチャですね」

    井上「ムチャクチャです。靖国神社の忠魂史を編纂したのは、陸海軍省参謀部です。参謀部は恩給などのために全兵士の詳細な記録を持っていますから、事実を分かっているのです。分かっていながら、違う戦いで死んだことにしているのです」

    岩上「杉野寅吉が成歓の戦いに行っていたわけもないのですよね」

    井上「ありえないです。まだ部隊は編成途中ですから」

    岩上「戦死だという扱いにしなければ遺族には恩給は出ないから戦死という扱いをしたけれども、記録上は別のところで戦死したことになっていた。

     ということは、一人の戦死者を出した連山の戦いを含め、一連の農民掃討の戦い、この殲滅戦そのものを隠した。芸が細かいですよね。記録から抹殺したということですよね」

    井上「そうです。連山の戦いはあってはならなかった戦いなんですね。『東学農民戦争と日本』を書いてる時、編集者の梅田さんが、『このことをはっきり書きましょう』とおっしゃいました。むしろ編集者の梅田さんのほうから提案があったのです。私も本当にはっきり書くと一番わかってもらえると思いました。この編集者の方は、本当に慧眼だと思いましたね(※38)」

    ----------------------------------------------------------------------
    (※38)この話に該当する箇所を『東学農民戦争と日本』から引用する。

     「調べてみると、この連山の戦いの戦死者は、『靖国神社忠魂史』第一巻に記されていないのです。『靖国神社忠魂史』は、戦前一九三五年に、靖国神社と陸海軍省が編纂したものです。同書巻末の人名索引で調べると、徳島の杉野寅吉は、「成歓の戦い」の初日である一八九四年七月二九の戦死者として記載されているのでした。成歓の戦いは、朝鮮の東学農民軍との戦闘ではなくて、清国軍との緒戦でした。戦死の日付が、十二月から七月に移され、戦闘場所も移されていたのです」

     「数万の朝鮮農民の犠牲者を出した朝鮮東学農民軍の蜂起と日本軍の包囲殲滅作戦は、日清戦争後の日本政府と日本軍にとって、本来は大問題を残したはずだと思います。しかし、それを戦史に、多少でも客観的に記録しようとする参謀本部の姿勢は、皆無なのでした。それどころか、大がかりな作戦があったこと自体が、軍事機密上兵站部を明らかにしないなどの、いかなる言い訳があるにせよ、参謀本部編纂の戦史では、隠蔽されたのでした(日本軍の兵站戦の弱さは、知れわたった事実でしたが)。殲滅作戦そのものを消した以上、そこでの戦死者も消さなくてはなりません。それゆえに、戦死者が清国軍との戦いへと移されたことが、私には、腑に落ちたのです」
    (『東学農民戦争と日本』pp.84-85)
    ----------------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆やっと探しあてた忠魂碑◆
    ================================

    岩上「これは本当にミステリーです。ひどいことが行われ、そして消されていく。

     さらに、もう一つの隠された歴史として重要な人物が出てきます。これは井上先生が大変詳しくお調べになっています。南小四郎という大隊長だった人についてです。

     川上操六が電報を大本営に送り、外務大臣・陸奥宗光を飛び越して、伊藤総理に連絡をする。早く二中隊送るように要請しました。そして三中隊が送られました。三中隊だったのは、三つの街道を北から南下することによって、東学農民を絶対北上させないで、南の隅に追い詰めて、掃滅するためでした。この三中隊の上にいた大隊長が南小四郎でした」

    井上「はい、現場では一番上です。当時は少佐でした」

    岩上「この少佐をピックアップして、連れて行った。この背景に何かどうもあるようです。

     南さんは、どちらの出身で、どういう人と関わりがあったんでしょうか」

    井上「南小四郎はよく知られた人で、韓国の研究者も、日本の甲午農民戦争の研究者もみんな知っています」

    岩上「研究者の間では、有名なんですね。要するに、現場の指揮官のトップだった」

    井上「はい、東学農民を数十万を死傷させた大隊の中心にいた指揮官ですから、韓国ではみんな知ってました。日本のチョ・キョンダイさんも南小四郎はよく知っていると言っていました。ただ、どういう人物かは全然わからなかったのです。防衛省に行ったときに調べてみましたら、山口県の出身の方だということが分かりました」

    岩上「長州ですね」

    井上「私は明治維新の研究者ですから、長州藩が専門なんです。すぐに地元に連絡をとりました。そしたら、南小四郎さんのご子孫が山口にいらっしゃることがわかりました。また、瀬戸内の村のお寺に南小四郎さんのお墓があることも分かりました。

     私はそのお墓をお参りに行きました。屋敷の跡も残っていて、その村のお年寄りたちはみんな南小四郎を知っていて、ご子孫もわかりました。ご子孫にお電話をしてお話もしました。

     こういうことをきちんと戦争史として残す必要があります。主張の如何を問わず、戦争史はあるがまま正確に残すものです。ヨーロッパでは正確に残して、保守派であれ進歩派であれ、将来の参考にしていますよ。針路を誤らないためには大事なことです。

     私は日本の保守的な人にとっても、戦争が実際にどういうふうに戦われたかは正確にちゃんと認識されるということが非常に重要だと思います」

    岩上「そうですね、リアリストであったら」

    井上「手前味噌な戦史だけでやると、道を誤ります」

    岩上「そうですね。学問とは言えませんね」

    井上「ええ。それで、南小四郎さんのご子孫に電話しました。ただ、問題が問題ですから、丁寧にお話をして頂くことはできましたけれども、お訪ねすることはできなかった。その後お墓に何回もうかがいました。そして7~8年経ってまた連絡したら、今度は来てくださいとおっしゃってくださいました」

    岩上「南小四郎さんのお墓を通いつめて、遺族にやっとお気持ちが通じた」

    井上「通じたんだと思いますね。 お二人とも非常に高齢な方でした。訪ねたときに南小四郎の軍用行李(こうり)(※39)を見せて頂きました。びっくりしましたね。革張りのもので、ものすごく使い古していました。その中に、南小四郎さん自身の文書(もんじょ)がありました。それから当時、南大隊長宛に朝鮮の現地から出されたのであろう、いろいろな公文書もありました。

     そういう文書は相当散逸していたとは思いますけども、それでも何十点も残っていたんです。その中に南さんが日を追って自分の行動をメモされたものがありました。きちんと清書されて公文書になっているものの控えです。それがあったおかげで、後備第十九大隊の動静は今ではしっかり正確に戦史を残すことができます。それによって、そのヨンサンの戦いもわかりました。

     それまで知られていたのは、 南小四郎さんがソウルの公使館に行ったことです。南小四郎は戦争が終わったあとに朝鮮政府の王と、大臣と、日本の顧問官を前にして、討伐戦を証言しています。日本は公使館記録を全部焼いてしまったんですけども、焼け残ったものがあり、その談話記録は残っています。

     当時の朝鮮の方が、朝鮮史編纂の手伝いに入っておられましたが、その方が、日本人が全部焼いているときに、これはぜひとも残さなくちゃいけないと思われた。それで、ガラス写真になっていた部分をひそかに保存されたのです。それが今、韓国に残っています。

     ただ、そのガラス写真は、ひそかに残されたものでしたから非常に痛んでいたのです。アメリカのスタンフォード大学に送って保存処置をしてもらい、今は、ソウルの国史編纂委員会にあります。

     そのガラス写真に南小四郎の談話記録が、かろうじて残っていました。一人の戦死者を出したヨンサンの戦いの際、第三中隊、本部中隊、第三中隊は、東学農民軍の大軍に包囲されています。やはりその戦いは南さんにとっても、非常に印象に残ったのですね。戦いの情景を非常に詳しく、私らたちが読んでも非常に印象に残る形で証言しています。

     それでその証言にあったヨンサン(連山)に行ってみることにしました。お墓が見つかるかどうか非常に不安でしたが、ともかく行ってみようと思いました。本部中隊が進撃した進撃路を、韓国の研究者と一緒にタクシーで進みました。

     南は山岳部で苦戦しました。しかも、多分南たちが戦ったのは、チェ・シヒョンの配下の北接の部隊です。北接の部隊はチョン・ポンジュンより劣ると今まで言われ続けていたのですが、そんなことはありません。最近は韓国でもいろいろな資料の掘り起こしがされ、出てきた資料によって、北接の部隊が非常に激しく戦っていたことが分かりました。それで、シヒョンさんはチョン・ポンジュンと合流しました。

     チョン・ポンジュンが日本軍に対して結集したロンサンというところに部隊の半分を送ります。残った半分は守備隊なんですけども、南たちはその守備隊に翻弄されるのです。日本軍は山岳地帯をさまよい歩いて、山の中で軍馬を失うんですね。70頭いた軍馬を半分失って、膝を没する悪路に苦しみました。

     それから人夫を雇うのですが、その人は実は東学でした。それで、荷物を持って逃げてしまいました。このことは南さん自身が談話で言ってます。それから、偵察員にしても結局朝鮮の人を使いましたから 情報が筒抜けになります。このことも南さんが言っています。ヨンサンの戦いは南さんにとって非常に印象的な戦いだったのです。

     私が韓国の研究者と一緒にヨンサン(連山)にタクシーで入ったとき、もう真夜中でした。真っ暗で何も見えなかったんですが、ともかくヨンサン(連山)は見ました。ここのどこかで杉野寅吉も戦死した、そのヨンサン(連山)です。そういう現場を見ているということは、墓があるかないかを探すときに大事なのです」

    岩上「相当苦労して見つけたのですね」

    井上「愛媛の方たちもいろいろ活動をされていましたし、香川の方でも調べをはじめられた方もいました。私は徳島の文書館の徳野さんという方に協力してもらって、鏡という村を教えてもらい、徳島本線で行きました。学(がく)駅という無人駅で降りて、町営バスの小さなバスに乗って、吉野川を渡りました。大江大橋を渡ったところで降りて、そこで一人で探してきた。3月のことでした。

     文書館で墓地のある場所を調べて、それを地図に記入していました。墓地を全部見るつもりで、南から探し北のほうに向かいました。共同火葬場の横にある大きな共同墓地に行きました。見つからなかったので もう諦めかけていました。しかし、そこで忠魂碑を見つけました」

    岩上「それがヨンサン(連山)の戦いで死んだ唯一の戦死者である杉野寅吉さんの忠魂碑だったのですね。その戦い自体をなかったことにするために、靖国神社と陸軍省が戦死の日にちと場所を勝手に変えてしまっていた。忠魂碑ということは、どこでどういうふうに死んだかが書いてあるのですね」

    井上「はい、『東学農民戦争と日本』に全文を出しました。その忠魂碑は非常に古く、風化しています(※40)」

    岩上「忠魂碑にチョンジュドの連山と書いていますね」

    井上「はい。 杉野寅吉さんが亡くなって、遺族はこれをすぐに建てています。私は、遺族の方がどういうふうに墓を建てるのかに関心を持っていました。ちゃんと正確な事実を書いて、死者を悼む墓を建てられていた。それが分かりました」

    岩上「これで、もう間違いないということになったのですね。そして、南小四郎の証言録に出ていた話が裏付けられていくのですね」

    ----------------------------------------------------------------------
    (※39)行李とは、竹などで編んだ物入れのことであり、荷物を運搬する際に用いた。(デジタル大辞泉より【URL】http://kotobank.jp/word/行李

    (※40)「風化した碑には、撫養街道で妻と農商を業にしていた「温厚」な杉野寅吉が、忠清道連山県で、四囲からの弾丸が顎に命中して戦史したと記されていました」(『東学農民戦争と日本』p.86)
    ---------------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆ほとんど武器を持たない農民軍をライフル銃でなぎ倒す◆
    ================================

    井上「コンジュの戦いという有名な大戦争がありました。南小四郎は、北のほうから南下して進軍していきます。山脈を越えて南下してきて、まずオクチョン(沃川)からクムサン(錦山)へ越えます。これが非常に難路で、珍山から連山へまた2回峠を越える。そして、出てきたところで・・・」

    岩上「撃たれるのですね」

    井上「東学農民軍の大部隊が3万人いました。南小四郎は3万人と書いています」

    岩上「それなのに日本軍の死傷者がたった一人だったというのは、東学農民軍が持っていた武器がいかに脆弱なものだったかということを表していますね。日本軍は少数だったけれどもライフル銃で相手をなぎ倒していった。一方的な戦いだったのですね」

    井上「韓国は徴兵制ですから、韓国の研究者はそういう銃には詳しいのです。少尉までいった研究者が言っていましたけど、そのスナイドル銃はイギリス製の初期のスナイドル銃だそうです。

     実物は北海道の開拓記念館にあり、触ることができます。韓国の研究者たちがぜひスナイドル銃を見たいと言いましたので、靖国神社でガラスケース越しに見ました。陸軍の武器学校が茨城県にありまして、武器学校にも行きましたけど、武器学校では・・・」

    岩上「陸軍と言うと、今の陸上自衛隊のことですか」

    井上「はい、陸上自衛隊の武器技術学校です。そこではチェーンでつながれているものを見ました。触ることもできるようになっていたのですが、自衛官が横についていましたので、私たちも遠慮して礼儀正しく見ていましたけど」

    岩上「操作まではいかなかったと」

    井上「北海道の開拓記念館にあったものは操作しました。それで、しっかり見ることができました。韓国の研究者は、このライフル銃であれば、火縄銃とは1対200だと言っていました」

    岩上「1対200。一人で火縄銃を持った200名と戦えるということですね」

    井上「はい。火縄銃の弾というのは弾丸で、丸い弾が回転しないでスポンと出ます。そうすると、野球で言えばフォークボールのように、すぐ曲がってしまいます。だから、火縄銃の有効な射程距離は100メートル以内なのです。

     それに対して、スナイドル銃は、薬莢(やっきょう)があって、先が尖っていて、ライフルは螺旋(らせん)で、激しいジャイロ回転をさせる」

    岩上「切れ込みがあって、その切れ込みにあわせて銃身の中で回転して、そして飛んでいくわけですね」

    井上「そうです。だから全く直線で、有効射程距離が何百メートルにもなります。そして、激しく回転しますから、当たった場合には殺傷力がすごいです。だから、火縄銃とスナイドル銃は1対200だと、韓国の研究者は言ってました。

     日本軍の持っていた銃の射程距離は400メートルだったのです。それで、相手を400メートルまでひきつけます」

    岩上「相手の持っている火縄銃では400メートルでは届かないので、もっと接近しようとどんどん進軍してくるのですね。そこで、彼らの銃が届かない範囲の中で日本軍が一斉射撃をした」

    井上「ライフル銃だと400メートルは百発百中です。だから、彼らがどんどん自分の銃の射程距離に入ってこようとすると、全部百発百中になります。実際に日本軍の兵士は百発百中だと書いていますよね(※41)」

    岩上「要するに、新兵器と徴兵制という二つのものによって自分たちが勝ったことに酔いしれたんでしょうね」

    井上「ええ、そうですね」

    ----------------------------------------------------------------------
    (※41)この話に該当する箇所を『東学農民戦争と日本』から引用する。

     「殺到する東学農民軍を、「四百メートル」まで引きつけてライフル銃で狙撃するのは、日本軍の常法の戦法だったのです。弾丸三千百余発を発射した一等軍曹は、「百発百中、実に愉快を覚えたり」と記しています。

     続けて、東学農民軍を『烏合の土民』と呼んでいました。自国日本が強兵であることを驕り、朝鮮民族の尊厳を無視した、無惨な手紙としかいいようがありません。そして実は、地方新聞に掲載された軍人の手紙には、こういう言説があちこちに見られるのです。

     ライフル銃と徴兵制に支えられて、職業軍人たちは、比較的確実に、軍人には大切な名誉と出世を手にする機会を得たわけでした。「実に愉快を覚えたり」というのは、半ば以上、本音だったと思います」(『東学農民戦争と日本』pp.104-105)
    ----------------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆秘密のダーティーワークはいかにして進められたのか◆
    ================================

    岩上「もうひとつの謎も教えて頂きたいのですが、井上馨のことです。井上馨と南小四郎少佐には、どうも深い関わりがあるということなのですけれど、ここには大変な因縁というか一つのミステリーがありますね。これについてお話頂けますか」

    井上「南小四郎さんが生まれたのは、おそらく江戸時代終わりの幕末に近い頃です。やはり彼の経歴を知りたいと思いました。彼は最後に少佐として戦います。少佐や大尉というのは現場指揮官で、司令部の命令を受けて現場で指揮する軍人です。そういう意味では、責任のレベルも、中央の大本営よりもずっと下だと思います。

     南小四郎さんがどういう人物か調査する必要があると思いました。明治維新の頃のことですから。『防長回天史(ぼうちょうかいてんし)』(※42)という、一番の中心になる回天史があります」

     防長回天史に、南小四郎さんが実は登場してるんです。幕末にはまだ二十歳になったばかりでした。彼は、本来の姓は柳井といいまして、長州藩の家臣の家来でした」

    岩上「身分が低かったのですね」

    井上「陪臣(ばいしん)という、家来の家来でした。本当の下級武士の方でしたけれども、彼は尊皇攘夷運動、蛤御門の変、禁門の変に参加して戦っています。彼は戦闘の現場に参加している。だから、本当の尊皇攘夷運動の中心に参加したのです」

    岩上「実戦で斬り合いをした本当のソルジャーですね」

    井上「ええ、 維新のときの功労者ですね。その後、戊辰戦争で新潟のほうへ行きますし、四国のほうにも行きます。さらに函館戦争も参加して、函館戦争のときに中隊を指揮しています」

    岩上「どれもすべて、本当に激戦の内戦ですよね」

    井上「そうですね。それで、明治維新後は陸軍の指揮軍舎に入って、兵士になります。日本で、佐賀の乱、萩の乱、それから地租改正の農民の反対一揆が起きます。農民が地租に反対した一揆で有名なのは和歌山と三重と愛知ですけれども、彼は和歌山で農民弾圧の討伐戦に参加しています」

    岩上「これまた農民を殺しているんですか」

    井上「殺してはいないと思います」

    岩上「殺してはいない。鎮圧程度ですか」

    井上「はい。あと、西南戦争でも戦っています。日本が近代軍隊を持った戦争です。スナイドル銃は、長州藩が幕末の戊辰戦争で使っています。幕長戦争ではミニエー銃を使っています。

     ミニエー銃というのは、スナイドル銃より少し前の段階のライフル銃です。当時、ミニエー銃やスナイドル銃は長崎で買い付けされていまして、非常に高価でした。それでグラバー(※43)が大儲けします。その藩の財政を挙げての買い付けに、伊藤と井上がひそかに長崎に派遣されました。グラバーと話をつけるためです。

     このように近代軍隊を作り上げていく大きな歴史の中で、日清戦争に参加した伊藤と井上はここにも登場しているわけですね。まだ2人とも全くの尊皇攘夷運動の下(した)ですよね。特に伊藤は農民出身ですから」

    岩上「20代の若者ですね」

    井上「20代ですね。長州藩で正義派と保守派のあいだの内戦があり、それが終わったあとに、南小四郎は、今の新山口、前の小郡(おごおり)の辺で、鴻城軍(こうじょうぐん)というのに参加します(※44)。

     そのときの隊長が、井上聞多(もんた)、つまり井上馨でした。当然2人は顔を知っていた。彼らも伊藤博文も尊皇攘夷運動を戦っていた仲ですから。ということは、やはり明治維新というのを考えるときに・・・」

    岩上「これは、一緒の軍の中の上官と部下という関係ですね」

    井上「そうです。隊長と幹部です」

    岩上「上下の一つの関係にあった」

    井上「不思議な縁ですよね。驚きました」

    岩上「もちろんお互いを知っていたでしょう。

     こういう重大な、外に漏らせない秘密作戦ですよ。伊藤が総理、公使が井上のときに、この徹底した作戦ができる能力を見込んで南小四郎を呼び寄せた。長州閥という1本のラインが浮かび上がります。

     世間に漏れたら困るダーティワークをやらなければならない、そのダーティワークをやらせるんだったら・・・」

    井上「そうですね、ダーティワークですね。多分そうなることは予想がついたでしょうね」

    岩上「そのダーティワーク、つまりジェノサイドです。相手は軍人ではなく農民だということも分かっている。それをぶった斬っていくことをやらせる。

     農民軍を徹底的に殲滅しろという命令を受けていた。とにかく絶対に国外に分からないようにし、日本国内にもわからないようにし、秘密のまま遂行する、これを、長州の絆の中でやるのですね。普通の人であればそんな命令は受けたくないと思うでしょうけれども。

     南小四郎はそれを引き受けて、やり抜いてしまった。長州閥が朝鮮半島において記した足跡(そくせき)の荒々しさというのは、すごいものがありますね」

    井上「おっしゃるように、文字通り、非常に汚い仕事ですよね。私はそう思います。やはり、いろいろなゲリラを討伐する軍隊と同じで、そういう汚い仕事だと思います。

     討伐戦が終わり、日清戦争が終った後、 南小四郎さんは少佐のまま出世しないのです。討伐戦自体が戦史に残りませんから。彼は少佐止まりで、非常に不遇です。それを思わせる記録が、防衛省の今の記録に出てきます」

    岩上「報われなかったということで、不満もあったのではないかと思いますね」

    井上「あったかもしれないですね。本当の日清戦争の舞台裏です。舞台裏ですが、肝心なところです」

    岩上「でも、やはり南小四郎さんは、それを黙って隠し続けたのですよね」

    井上「ええ、そうだと思います」

    岩上「そこがまた、 使う側からすると、信頼できると思われた理由だったのでしょうけれども」

    井上「おっしゃるところがあると思いますね」

    ------------------------------------------------------
    (※42)防長回天史とは、末松謙澄が著した幕末・維新期の長州藩についての史書である。毛利家の依頼で編纂が始められ、毛利家旧重臣とともに山路愛山や堺利彦らが編纂に参加した。客観的な叙述、豊富な引用史料からなる史書となっている。初編は1911年、20年に全6編12巻が刊行された。(世界大百科事典第2版より【URL】http://bit.ly/1hNrdOf)近代デジタルライブラリーでインターネット公開されている。【URL】http://bit.ly/1cLckwB

    (※43)トーマス・ブレーク・グラバー(1838~1911)はスコットランド出身の商人で、幕末期に日本で武器商人として活躍した。(三菱グループの「三菱人物伝」より 【URL】http://bit.ly/19wvRhy

    (※44)「南小四郎が、幕末期には長州藩の尊王攘夷運動に参加して、禁門の変、幕長戦争、戊辰戦争、函館戦争など幕末維新のあらゆる内戦に参加した尊王攘夷・討幕運動の活動家だったことも分かりました。その後も、明治政府の軍人に転身した南小四郎は、佐賀の乱、和歌山県地租改正農民騒動(鎮圧軍)、萩の乱、西南戦争などあらゆる内戦に参戦して、日本陸軍の歴史をともに歩んで、一八九〇年に休暇扱い、後備役に入っていて、日清戦争で召集されていました」(『東学農民戦争と日本』pp.72-73)
    ----------------------------------------------------------------------

    ================================
    ◆貴重な資料を残していた子孫の方々◆
    ================================

    井上「南小四郎さんのご子孫の方が残していた文書は山口文書館に入りました。山口県文書館の人も非常に貴重な記録だと認識され、保存のために尽力して頂いたのです。こういう記録が後世に残ることは、日本のあらゆる人にとって非常にいいことだと思いますね」

    岩上「今ここで話している話を嘘だと言う人間がいたら、ちゃんと記録を見て事実を確認してくださいと言うことができますからね」

    井上「やはり、歴史では一次史料が一番大事です。それを残されるという公正な態度を取られたご子孫に、私は敬意を表します」

    岩上「どのような思いだったのでしょうか。この記録を持っていたご子孫たちには、複雑な葛藤があったのではないでしょうか。

     国を挙げて隠してジェノサイドをやったわけですからね。そんなことが知れたら大変だという思いもあり、とにかく隠されてきたものを、お出しになったのには、いろんな葛藤があったと思うのですけれど」

    井上「私は、これだけではなくいろいろな調査で四国を歩き、ご子孫とお会いしてきました。地元ではだいたいそういうことは負の部分だと思われているので、非常に微妙な問題です。

    今まで回った範囲では、例えば高知県で、兵士個人の陣中日記は見つけました。それは本当に高知県の端のほうのお蔵に入っているものですけれども」

    岩上「これも大事な話ですよね」

    井上「そういうふうに調査で訪ね歩くとき、不愉快な経験をしたことがほとんどありません。もちろん不愉快な経験もしましたけども、それは本当に数が少ないのです。だいたいは、協力してくださる。こういう朝鮮に関する調査で歩いても、普通の地元の方は、みんな好意的ですよ。

     そういうことを隠し通し続けろという態度を取る方はほとんどいません。朝鮮とのことはいろいろご存知だし、友好的にやったほうがいいという思いは、みんなあるんですよね。韓国の研究者を一緒にお連れして歩いたこともありますけども、そういう時でも非常に好意的です」

    ================================
    ◆兵士たちは何を行い、何を思ったのか◆
    ================================

    岩上「今ちょっとお話にありましたが、井上先生は兵士個人の陣中日記を発見されましたね。ご遺族を説得されて史料を見たのですね。一(いち)兵士の陣中日誌について、これはお名前はまだ出せないということですが、徳島の方なのですよね」

    井上「はい、徳島です」

    岩上「徳島の方ということは、第四混成旅団に参加した一人だと思うのですけれど。この中身がまたすごいものだということなのですけど、それがどういうものなのか、お話いただけますか」

    井上「あの、そういう微妙なものですから、やはり現在の所有者の方などの意思がありますからね。あまり・・・」

    岩上「部分的にしか公開されてないですよね」

    井上「私がお話するということは、今はまだ差し控えた方がいいと思いますよ」

    岩上「そうですか。『東学農民戦争と日本』にすでにお書きになっていらっしゃいますけれど(※45)」

    井上「部分的にであっても戦史を客観的に残すことが、あらゆる人にとって大事だという思いで、私が責任を持って発見したものを発表していくということにしております。それについては、だいたい遺族の方たちも了承されていらっしゃいます。けれども、やはり、その子孫の方たちの思いを受け取ることも必要ですので、何でもいいから発表するというわけにはいかないところがあります」

    岩上「『東学農民戦争と日本』の中で抜粋した箇所というのは、発表してもよいと判断し、かつ、ご子孫の方々の承諾を得た箇所なのですね」

    井上「そうですね。やはり、いろんな主張の方がいらっしゃいますからね。これについては私が全責任を持つということで、本の中に抜粋しました」

    岩上「この徳島の方は、殲滅作戦に従事していた方で、今日どういうことが起こったかという事実を淡々と書いていっていますね」

    井上「はい。時刻も書いてありますね。淡々と書かれています。

    私と地元の仲介してくださる郷土史研究の方は、私の熱意に応えてくださり、ある部分は発表してもいいと言ってくださいました。非常に良識のある方ですよね。私は本当に敬意を表します」

    岩上「実際に何を行ったのかが書かれているものを読むことが大切です。美化をしたり、現実を見ない人がたくさんいます。そして、新しい世代がどんどん生まれてきます。私の親も出征しているんですけど、父親や祖父母から、戦争体験を聞きました。

     でも今は、戦争の話を全く聞かないで育った若い子たちが、ネットで戦争を美化する話を聞き、自分も発信している。今の若い人たちは大変好戦的になっているんですよ。幻想の戦争ですね。でもこういうのが戦争なんだというのを知ったら、とてもじゃないですけど、戦争を美化できないですよね」

    井上「ええ、そういう意味では非常に貴重な記録だと思います。そういう史料の場合、まず第一は、何はともあれ残す、どういう形でもいいから、まずは残るということが大事ですよね。そして、できるだけそれを公開して、学問的に公正に使うということが大事です。私の経験では、そういう史料がまだほかにもありますよ」

    岩上「ありますか」

    井上「あります。歴史家が農村を歩くということ自体が、日本ではだんだん過去のものになりつつありますけれど。もう一つ、高知県でも、お蔵に陣中日記があるのです」

    岩上「それは『東学農民戦争と日本』の中には入ってないのですね」

    井上「一行だけ書いています」

    岩上「隠された歴史に関する陣中日誌が発見されている。これは大変貴重な記録なんですけれども、刺激の多いものでもありますから、ぜひ、『東学農民戦争と日本』をお読みください。全て一次史料としてあるということですよね」

    井上「そうですね。大事な資料ですよね」

    岩上「一次史料が発掘されている。よくこういう歴史の出来事について、デマかデマでないかとかいうことを言う人がいますけれど、この件については事実ということですよね」

    井上「そうですね」

    岩上「何かを見るときに、右寄りに見るとか、左寄りに見るという以前に、ありのままに見る、苦くても事実を見るということが、やはり大事だということですね」

    井上「そうですね。特に戦争史の場合は、何が起こったかを正確に知ることが必要です」

    岩上「戦争推進派であっても、戦争について常に正確に理解し、記録しなければいけないですよね」

    井上「ええ、その通りですね」

    岩上「戦争して勝とうと思うのであれば、記録が大切ですよね」

    井上「そうですね」

    ------------------------------------------------------
    (※45)この話に該当する箇所を、『東学農民戦争と日本』から引用する。

     「徳島の兵士が、先のように地獄絵図のような討伐戦を克明に叙述していました。この兵士は、連山の戦闘で戦死した後備第十九大隊ただ一人の戦死者、杉野虎吉とは親友でした。親友杉野虎吉の戦死を、十二月二八日、南原で聞くのですが、その前の十二月三日に杉野と沃川で出会っています。全村東学農民軍だった沃川は、日本軍に攻撃され、『故に六里間、民家に人無く、また数百戸を焼き失せり、かつ死体多く路傍に斃れ、犬鳥の喰ふ所となる』という状態でした。兵士は、『その夜、杉野虎吉に面会し、戦闘の話種々、かつこれまでの困苦を語り合ひ、数時間に及ぶ』と記していました。語り合ったのは、彼らが経験させられた『これまでの困苦』でした。下士官の『百発百中、実に愉快』とはちがっていました。日本兵の残虐行為に、もちろん彼自身も参加したのですが、しかし、正視に耐えがたい虐殺と破壊を、克明に、具体的に記して、数年後、親戚のものに筆記を手伝わせたその行為には、この兵士の、この事実を書き残し、後世に訴えようという想いが込められていたと思います」( 井上勝生『東学農民戦争と日本 もうひとつの日清戦争』第三章「日本軍最
    初のジェノサイド作戦」pp.106-107)
    ------------------------------------------------------

    ================================
    ◆日清戦争の最大の戦死者は朝鮮人◆
    ================================

    岩上「無残な殺され方をした人たちがいた事実を記録することが大事です。『東学農民戦争と日本』の中に出てきますが、日清戦争の最大の戦死者は日本でも清でもなかったのです。

     これは日清戦争の間に起こっているのです。日清戦争はもう一つの戦争があって、そのもう一つの戦争というのは清国が相手なのではなく、農民が相手でした。朝鮮の農民を相手に、日本は、国際法違反のジェノサイドを行っていた。そして、日清戦争の戦死者は朝鮮人のほうが多い」

    井上「ええ、そうですね。最大ですね」

    岩上「どのくらい死んだんですか」

    井上「チョ・キョンダイさんが概算した数字が、今のところは一番信頼できる数字です。チョ・キョンダイさんは、控えめに計算したと言っていますが、戦死者を3万から5万としています。

     韓国の東学史という本で、東学の戦争の経験者が、死傷者は30万とか50万とか書いています。チョ・キョンダイさんはそれが間違いだと言っています。私は、少なくとも3万から5万というのは、確かな数だと思います。

     と言いますのは、珍島の、先ほどの髑髏の書き付けがありましたね。珍島で討伐戦が行われて、数百人が殺されて、複数の指導者が梟首(きょうしゅ)されたということが分かりましたから。まあ、それでも恐るべき数ですけどね」

    岩上「晒し首にしたのですよね」

    井上「はい。実際に我々は珍島を訪ねて、地元の人からいろいろ話を聞きました。地元で郷土史のパク・チュオンさんという方が話をしてくれました。パク・チュオンさんは東京の研究者から紹介してもらった人です。

     日本軍と日本軍に指揮された朝鮮政府側が入ってきて、珍島で討伐が行われたと、珍島の軍史に書かれています。地元の言い伝えもあります。ソンションリ(松?里)という村に行く峠道の道の斜面の2ヶ所に、処刑された東学の者たちの死体が捨てられた。その数は、戦後の珍島軍史には50人と書いています。

     そこは、悪臭を放っていて、当時誰も近づかなかったという。この場所と、珍島の綿花畑があったナンドオリ(南洞里)との距離は1キロです。佐藤政次郎さんは、この珍島の綿花畑に来ていたんですね。多分、そこにいたときに、死体が捨てられた場所で収集したのでしょう。人類学的な関心からだったのか
    分かりませんが。

     この記録が正確だということは分かっています。珍島の綿花畑に奨励金を与えた日が1906年9月20日でした。珍島の府内面の40人ぐらいの小作人の中の29人に奨励金を与えました。9月20日です。髑髏の書き付けに書かれた日付と同日です。

     小作人に奨励金を与える時には、木浦から技師か技手がやってきて話をします。奨励金をあげて、協力してもらうということですね。技師か技手が、1906年9月20日ここに来た」

    岩上「来たんですね」

    井上「9月20日となっています。奨励金を与えた日付と髑髏の書き付けの日付がぴったり一致する。数百名を超える死屍が道に横たわっていたことは本当なのですね。それが捨てられていた道についても、ぴったり一致します。だから、これは・・・」

    岩上「非常に信頼性が高い史料であるということですね」

    井上「討伐戦が1906年ですから、書かれたのは11年後です。2000~3000の東学農民が日本軍に追い詰められて珍島に逃げ込んだ、という記述があります。そして、数百人が殺された。3日間で討伐したのです。ありえることですよね。それは、ものすごく凄惨なものです」

    岩上「討伐っていうのは、逃げる者を追いかけて追いかけて、とにかく殺していくということですよね」

    井上「はい。家へ逃げた人は探して殺します。探し出して殺すとき、村に入り込んで、地元の地元民を使って殺させたり、見つけるために案内させたりしています。そういう凄惨な形が、記録にも出ています」

    (その4へ続く)



    原発 放射能 食品汚染 TPP 沖縄戦 

    関連記事
    スポンサーサイト

    テーマ: 許されない出来事

    ジャンル: ニュース

    真実の追求  /  tb: --  /  cm: --  /  △top
    原発 放射能 食品汚染 by freeseo1
    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。