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    原発問題 -The Truth is Out There-

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    【渡野喜屋(とのきや)事件】沖縄戦における日本兵による凄惨な住民虐殺の真実 

    【渡野喜屋(とのきや)事件】沖縄戦における日本兵による凄惨な住民虐殺の真実
    日めくり~細井明美のページ
    http://reemakemi.exblog.jp/9248345 より
    http://reemakemi.exblog.jp/9236391 より
    http://reemakemi.exblog.jp/9236419/ より


     ・避難民を虐殺する

    1945年3月26日、慶良間(けらま)諸島に上陸した米軍はそこを足場にして、4月1日、1500隻の艦船と1700機の航空機、延べ56万8千人の兵員をもって読谷(よみたん)、嘉手納(かでな)、北谷(ちゃたん)に上陸。1週間後名護まで侵攻していく。

    米軍が上陸した地域の住民は戦火を避け沖縄北部へと避難する。私がこれから書こうとしているのは読谷の人々が避難していった大宜味村渡野喜屋(白浜)部落での日本軍による虐殺事件である。

     北部への人々の移動は悲惨を極め、そのときの様子を森杉多氏(当時、宇土部隊東郷隊)は以下のように語っている。

    那覇近辺から10数日をかけて北部の指定町村にたどりついた避難民集団は、食料は得られず、衣服は破れ、老人は落伍し、病人は薬もなく行き倒れとなりました。背に腹はかえられず、食べ物を求めて村は荒らされ畠は掘り返され、山羊などの家畜は盗まれました。

    集団に後(おく)れ、杖をついて山道を急ぐ老人男女は道端にうずくまり、そのまま死んでいきました。道に迷った幼児も栄養失調で動けなくなりました。赤ん坊を背負った上に、幼児の手を引き、毛布や鍋やゴザなどを持つ若い母親は、ツワブキなどでは乳が出なくなり、乳呑児より先に息絶えました。

    当時北部戦線を守備していたのは第32軍第44旅団第2歩兵隊長宇土武彦大佐のひきいる国頭支隊(約3千名)、通称宇土部隊である。八重岳の戦闘(4月13~18日)で敗れた宇土部隊は国頭(くにがみ)の山中にもぐり地域住民の食糧を強奪しながら潜伏活動を続けていた。

    5月10日、渡野喜屋部落の避難民は米軍から食糧を支給されスパイを働いているとの地域住民からの密告を受けた宇土部隊の東郷隊長は2人の兵士(藤井兵長、松尾兵長)を調査に向かわせた。2人を案内したのは地元の少年である。ところが渡野喜屋部落で兵士たちは米軍につかまり連行される。その報告を少年から受けた部隊は避難民が彼らを米軍に売ったと理解し、米軍の来襲に備えた。

    5月12日夜間、不安と恐怖にさいなまれた宇土部隊は渡野喜屋部落を襲撃し3人の男たちを連行、さらに近くの浜辺に残りの避難民家族を集め手榴弾を投げ込み、35人を殺害し15人に負傷を負わせた(そのほとんどが女性と子どもである)。

    連行された3人の男たちは、それぞれ「頭目」、「ハワイ帰り」、「陸軍上等兵」などと呼ばれ、慶佐次(けさじ)川の河原で早朝から昼過ぎまで尋問された。注目すべきは3人の男たちを「捕虜」として扱っていることである。

    以下、森氏の証言より。

    こうして12日夜、東郷隊は下野と私ともう1名(名前忘失)の3名を残して渡野喜屋避難民を襲い、翌早朝、3人の「捕虜」を後手に縛って連れてきた。

    下野と私は凄愴の気を漂わせて厳命する曹長らから「捕虜」を受け継ぎ、慶佐次川右岸の珍しくその辺りだけ広い河原で、3人を監視することになった。その監視は早朝から昼過ぎまで続けられ、その間に1人ずつ隊長の訊問が河原の奥深くにある隊長宿舎で行われた。

    その後、部隊長の命令を受け、川下の雑木林に刑場が準備され、一人ずつ斬首と刺突により処刑される。

    では、この処刑の実体はどうであったか?

    読谷村史編集室は2002年8月に生き残った家族の証言を聞き取り調査している。

     当時、私は四歳だったので何も覚えてないが、兄は八歳だったので、全部見ていたそうだ。私は二十歳の時、兄から両親のことを聞いた。

     私たち家族は、当時、大宜味村渡野喜屋(現在白浜)の民家にいた。その日、父は米軍からもらったメリケン粉を皆に配っていたそうだ。おそらく日本軍は、昼間、山の上の方からそれを見ていたんだろうとのことだった。

     夜中、日本兵が何十人も血相を変えてやって来て、「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」と言って、男たちを連れて行ったそうだ。私たちの家には、日本兵が五人来ていたそうだ。

     父は殺されるのを知っていたのか、「自分はどうなってもいいから、妻や子どもには何もしないでくれ」と言って、連れていかれたそうだ。父は、家族の目の前ではなく、別の場所で殺された。

    首に短刀を三つ突き刺され、両方の膝の裏側を「日の丸だ」といって、五〇〇円玉ぐらいの大きさで、丸くくりぬかれていたそうだ。日本兵は、それを「勲章だ、勲章だ」と言って持って行ったとのこと。

    父は「おかあ、おかあ」と言いながら死んだそうだ。周りは血の海だったそうだ。

     男たちを連れて行った後、日本兵たちは「いい話があります。いい話があります」と言って、残った女子どもを浜に連れて行き、「一、二、三」と言って、手りゅう弾を三つ投げた。

    その時、兄のそばにいた人は内臓が飛び出して死んでいたそうだ。たくさんの人が亡くなったそうだ。

     幸い兄と妹は無傷で、母は足に軽傷を負ったが、私は顔と手足を負傷して動けなかった。それで、私を残して、母は妹をおぶって兄といっしょに父を探しに行ったそうだ。

     父の死体を見つけたとき、あまりのむごさに母と兄は気絶したそうだ。その時、米兵が母と兄に水を飲ませ、いっしょに父を埋めてくれたそうだ。

     二十歳の頃、私は兄から戦争中のことを聞き、渡野喜屋(大宜味村)を訪ねた。こうこういう理由で読谷から来たと話したら、地元の方が案内してくれたが、あんまり話は聞けなかった。

     私は、現在、本土で結婚して暮らしているが、盆正月には仏壇のことが気になって毎年帰っていた。夫が「男、女ってないから仏壇を持って来なさい」と言ってくれたので、ユタを頼んで拝んでもらい、今は本土に仏壇を持ってきてある。主人はいい人だが、私は、父を殺した同じ大和の人と結婚していることを気にしている。
    仏壇に向かって、いつも「こんなだから許して下さい」と言って拝んでいる。

     以上が渡野喜屋で起きた事件のあらましだが、このように住民をスパイ視して虐殺するケースは沖縄戦の末期には各所で起きる。

    住民そのものも情報操作をされ互いに監視しあっていた。

    渡野喜屋事件の発端も近くの住民が米軍から食糧を支給されている避難民をスパイ視して軍隊に密告するところから始まった。

    地域全体が飢餓とマラリアに侵されている状況で米軍からの食糧の支給は妬(そね)みの対象であったのかもしれない。

    ・住民をスパイ視する日本軍

     互いを監視させあう作戦は1944年から始まる。
    第32軍司令部は11月18日に「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」を策定。

    「常に民側の真相特に其の思想動向を判断し我が報道宣伝の効果、敵側諜報宣伝、謀略の企画及び内容の探査等敵策動に関する情報収集に努め敵の諜報、謀略並びに宣伝行為の封殺に遺憾なからしむ」として、住民の思想動向を調査し敵のスパイ活動を封殺することとし、これに県当局や警察、地域の警防団などが協力していった。

     しかし、宇土部隊の住民虐殺はこれだけではない。

    4月17日八重岳から多野岳移動の途中、米軍の上陸を知らせた照屋忠英・本部(もとぶ)国民学校長を本部町伊豆味でスパイとして刺殺している。

     本土防衛のための持久戦に位置づけられた沖縄戦は、南部で壮絶な戦いが繰り広げられる一方、北部では住民を巻き込んでのゲリラ戦となった。

    その作戦は住民を敵と味方にはっきり区別するものだった。利用できる住民は利用し、利用できないものはすべて抹殺していった。

     屋我地(やがち)島のハンセン病施設「愛楽園」は米軍から支給された米を宇土部隊によって供出させられている。

    以下は宇土部隊の竹下中尉(1945年6月18日戦死)の残した記述である。

     6月8日 朝、愛楽園を訪ねる。園長の早川(早田の誤記)と泉に会い、米3石と、7月までに25石を用意するように頼む/敵の軍医が嘉手納(軍政府本部)から来ている/カリフォルニア米の4回目の積み荷は、まだ愛楽園の敵側にある(中略)園は敵の配給を受け、徐々に復興しつつある(中略)/屋我地島を我々の食糧基地として保持するために、軍隊を送る必要がある/羽地の捕虜と避難民について話す。偵察を米軍歩哨詰め所に送る。運天も久志のような状態になりそうだ。
    住民の報告に不快になった。敵に協力するものに躊躇はしない。私たちに協力するものとしないものを区別しなければならない

    そのとき入所者は一日一個のにぎり飯で生きていた。
    軍隊はその彼らに対し米軍から支給された米の積荷半分、兵士200人分を要求したのだ。軍隊などというものは本当にろくでもない。凶器を持った暴力集団だ。

    さて、宇土隊が投降したのは10月のこと。彼らは8月20日頃敗戦の情報を得ていたがその後も潜伏を続け10月2日投降することを決定する。

    10月3日の「G2」レポートには次のように記載されている。

    「辺土名(へんとな)と鏡地(かがんじ)の一帯で、国頭分隊の日本軍将校12人、日本兵86人、軍夫1人が投降。国頭分隊の指揮者は、宇土武彦大佐である」。

    日本軍の沖縄住民に対する「虐殺」の責任は一体どのように取られたのだろう。

    宇土部隊の生存者や遺族が名護に慰霊碑を建立して慰霊祭を行っている(ただし、これも彼らの「戦友」を慰霊するものだった)が、沖縄戦における日本軍の戦争責任について政府が言及した記録はない。

    昨今の日本軍の関与を否定する動きは、沖縄戦において、軍隊が民衆を助けるものではなく民衆にとって危険な存在であったという事実を消し去るものである。

     「戦争」は人を変えるというが、兵士は軍隊という殺人集団の訓練によって変わるのだ。

    民衆を分断し、憎悪を煽り立て人間の弱みにつけこみ人の心にあるエゴイズムと残虐性を増幅させる政治・軍事組織の台頭を、私たちは決して許してはならない。


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